牧師ひとくちメモ

2019.11.17

神の時

伝道の書3:11

 

 ソロモン王は、神がその時々になされる御業を、「美しい」と表現している。豊岡で牧会していた当時、30分ほど離れた八鹿(ようか)から、礼拝に来ていた3人の老婦人がおられた。そのお一人が、「小さな畑で葉物を育てていますが、その生育を見ておりますと、神様のお働きがよくわかります」と、話しておられた。

 

 人それぞれ「神の時」を、いつどのような出来事から覚えるかは違っている。私が最近、使徒の働き11章を読んだ。その中にアンテオケ教会について記されてあった。

 

エルサレム教会の迫害によって、散らされた聖徒の一部がアンテオケに来た。そこは、国外でありギリシャ語しか通じない。福音を語ったところ、大勢が信じた。エルサレム教会は、バルナバを派遣。続いて、サウロ(後のパウロ)が働きに加わる。

言わば複数牧会。アンテオケ教会は、飢饉があったユダヤに住む人々を救援する。この一連の働きは、鮮やかな聖霊の御業である。

 

 こうした出来事は、ほんの一部にすぎない。聖書の中にも、自然界の中にも、日常生活の中にも、教会の中にあっても、神のみ働きを受け止めたいと願う。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(3:11) 私たちは、その時々の神の御業を、どのように表現するだろう。



2019.11.10

宣教の重荷を

Ⅱテモテ4:2

 

 テモテは、幼いころより聖書教育を受け、祖母と母から信仰を継承した。言わば、2代目か3代目のクリスチャンということになる。若くして信仰を持つことができたのは幸いである。この時期の、彼の信仰生活は波一つ立たないような、守られた中での歩みではなかっただろうか。パウロの第2次伝道旅行には、テモテを選び同伴した。おそらく、彼が20代ではなかったかと思われる。

 

 テモテはパウロと離れて、主の働きに従事していた。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」と、書き送ってをいる。いざ、働きの現場に入ると、親元で信仰生活していたころとは、ガラッと状況が変わる。悩みの中にあったテモテに、パウロは手紙を送る。

 

 「耳ざわりのよい話」で人を集めようとするなと。それは、主の言葉を語るものとしては不適である。テモテにこうも奨める。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)   私たちにも求められていること、それは主から託された御言葉を宣べ伝えることにある。


 

2019.11.3

出会いが人生を変える

ルカ5:4 - 5

 一度の出会いが人生を変えることがある。ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペテロもその一人である。夜どうし漁をしたが、何も取れずに陸(おか)に上がったシモンの舟に主は乗り込んだ。そして、少し岸から離れるように求めた。そこから、群衆に話された。一番、間近かで話を聞いていたのは、シモンであった。

 そのシモンに、主はさらなる要求をされた。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(4)。シモンは、そのようにしたところ、おびただしい漁の魚が取れた。夜どおしの漁での不漁から、一変して大漁となった。シモンが、驚くべき結果を得たのは、主のお言葉どおりに従ったからである。

 この出来事を通じて、シモンは、目の前におられるお方が誰であるかを知った。主はシモンに「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(9) と、話された。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。 」(10)  これを機に、シモンと、他の漁師たちは主の弟子になった。私たちは、主イエスとの出会いを体験しているだろうか。


2019.10.27

キリストの招き

マタイ9:9

 

  今から2千年前、ユダヤ社会で嫌われていたのが取税人である。主イエスは、マタイという名の取税人に「わたしに従ってきなさい」を声をかけられた。なぜ、取税人がきらわれたのだろう。それは、ローマの手先となり、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から税を取り立てていたからである。

 

 イエスに従っていったマタイは、食事を共にした。席を共にしていたのは、多くの取税人や罪人たちであった。これを見たパリサイ人は、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(11)と、声をあげた。

 

 私たちは、マタイ9:9-13を読みながら、主イエスは、どのような人をも招いておられるのがわかる。私たちは、自分にとって役立つ人、利益になる人、気に入った人を招くのではなかろうか。私たちは、主イエスから招かれた一人である。今も主は、「来たれ」と声をかけておられる。


2019.10.20

自らを差し出す

ローマ12:1

 

    どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(1)という。

 

 「霊的な礼拝」は、「神にみ心にかなった礼拝」と受け止めればよい。その礼拝には、「生きた、聖なる供え物」が求められる。「供え物」とは、「神に差し出す物」というわけである。何を差し出すか。それは、「あなたがたの体」である。つまり、あなた自身の身も霊もお捧げするのである。

 

 私たちの教会は、礼拝を含めてどのような集会にも、喜んで来ていただきたいと願っている。だが、あえて言わせていただけるとしたら、礼拝は、主のみ救いをいただいた人に求められている。身も霊もお捧げするのは、救われたことに対する感謝なくしてはできないからである。あなたは、どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。


2019.10.13

 

死は勝利にのまれて

 

Ⅰコリント15:55

 

  「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)   すべての人は罪を犯す。如何ともし難いことである。私たちは、さまざまな問題に処することができたとしても、「罪」に対しては、成すすべがない。全人類の敵は、「死」である。

 

 その私たちに、「永遠のいのち」がいただくことができる。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。 」(同23) 救い主イエス・キリストの恵みによって、罪ゆるされ、霊的な生まれかわることができる。これを新生といっている。救われた私たちは、朽ちる肉体を持っている。肉体は贖われないのだろうか。

 

 将来、携挙というできごとが起こる。そのときに、主とともに、先に主によって召された人がよみがえる。これを死人の復活という。その時に、「死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられる」 「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 」(Ⅰコリ15:52)  と、パウロは記している。

 

 この時に、肉体が完全に贖われたことになる。死人の復活の出来事を通して、死は、敗北でなく。「死は勝利にのまれてしま」うことになる。(55)


2019.10.6

プラス愛でいこう

コロサイ3:14

 

  あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、互に忍びあい、もし互に責むべきことがあればゆるし合う(12-13)。パウロは、クリスチャンに対して高い標準を示す。それで終わらない。「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。」(14)  つまり、プラス愛である。キリスト教は、愛とゆるしの教えと言われることがある。その通りだとおもう。

 

 愛とゆるしの教えは受ける者にはありがたい。人は自己中心な生き物である。与える者への道は、はなはだ険しい道に思える。理想と現実のギャップに悩む人もいるだろう。自分の力で成し遂げるのはむずかしい。わたしも、そうだと思う。

 

 唯一の方法がある。主イエスの心を心とすることである。主が、私たちの罪ゆえ十字架にお架かりになられた。それは、愛ゆえである。このお方から目を離すことなく、わが身になされたゆるしの恵みの大きさから目を離さなければ、主の標準を歩むことができると信じている。


2019.9.29

揺るぎない信仰

使徒11:23

    世の中の仕組みがより複雑になってきていると思う。ここ最近まで交通系ICカードICOKAの使用を躊躇していた。今は、便利さを知り用いている。価値の多様化、温暖化きていると思われる異常気象などなど、多くの人が将来に対する不安を覚えているのではなかろうか。

 

 エルサレム教会は、「バルナバをアンテオケにつかわした。」(22)   そして、「信仰を揺るがない心で持ちつづけるよう」(23)、みんなの者を励ました。わたしたちがどんなにまっとうな歩みをしていても、思いもおよばない中を通される。ちょっとしたことで信仰を見失うようなことがあっていいわけでない。バルナバの奨励は、ときに私たちに向けての言葉でもある。

 

 考えてみてほしい。今から25年前に、阪神淡路大震災が起こった。地が揺るいたのだ。70年、80年の生涯の中では大きな出来事に巻き込まれることがある。たといそうでも、信仰だけは揺るがないでほしい。立ち続けてほしい。


 

2019.9.22

天に召される

Ⅱコリント5:1

 

 クリスチャンの死を、「召天」という言い方をする。「昇天」は、キリストが復活して40日後に天に上げられたできごとを指している。召天と昇天は、同音異義語であるので使い分けて用い、理解したいものである。

 

 死んだ先について聖書には記している。「すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」(5:1)  私たちもいずれ、この地上を離れて、天にある永遠の家に入ることになる。

 

 愛する者との死別は、悲しくもあり寂しくもある。聖書には、「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩篇116篇15節)とある。悲しみの中にも、主が召され、永遠の住まいの中に招き入れられていることを信じようではないか。


2019.9.15

 

柔軟性を養う

 

ピリピ4:11-13

 

 ぶれない信仰を大切に、さまざまな出来事に柔軟に対応していければと願っている。使徒パウロは、この2つを持ち合わせた人物ではなかろうか。長い信仰者の歩みを通して、培われてきたものである。彼が獄中から記した手紙の中に、次のような言葉がでてくる。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(4:11)

 

 ユダヤ人だったパウロが、回心してキリスト教徒になった。特に、異邦人に向けて宣教の働きを担う。迫害の中にあっても、宣教の情熱は消えることがなかった。「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」の言葉には、余裕さえ感じ取れる。

 

 おそらくは、異邦人、異教社会での宣教は、柔軟な心の持ち主でなければ対処できないことばかりであったでしょう。日本宣教の前進を願うなら、ぶれない信仰、柔軟性を持ってことに当たる他ないのではないか。


2019.9.8

 

再出発

創世記12:4

 

  9月1日の聖日礼拝は、長寿祝福礼拝であった。当教会で祝福を受ける年齢が75歳以上ということにしている。聖書を見ると、1箇所だけ、「75歳」がでてくる。「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」(4)

 

 75歳は、余生に生きる年齢である。アブラハムは、その年齢にして新たなる出発をすることになった。私たちは、自覚的に生きているという面だけでなく、神に生かされているという両面を持ち合わせたいものである。

 

 「生かされている」の思いは、神さまが私の中になおも使命を与えておられる、残しておられると繋がる。使命は、確実に生きる力になる。漠然と生きているより、神に生かされて使命に生きるを自覚できればと願う。

2019.9.1

休ませてあげよう

マタイ11:28

 私は18歳で社会人になった。すでに週休制2日になっていた。教会生活を考慮して、土日が休みの会社を選んだ。休みはなんのためにあるのだろうか。リフレッシュのためである。元気を回復させる意味がある。

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたを休ませてあげよう」(28)と、約束された。彼らは、主の働き(重荷)を身に受けて霊肉ともに疲れ切ってしまったのであろう。

 疲れ切ってしまっては、良い働きはできない。背負い込みすぎては、倒れてしまう。働きには、持続が求められるとしたら、2つのことが大切である。1つは、適切に休みを与える。2つは、荷を負いやすくすることである。主は、2つともに心得ておられる。

2019.8.25

大丈夫・大丈夫

Ⅰサムエル1:17

 私たちは、大なり小なり困りごとを持っている。明日を生きる力が枯渇していることもある。そんなときに「大丈夫」と言ってくれる人があればと思う。 

 

 Ⅰサムエル記1章に、ハンナがでてくる。子どもが与えられなくて悩み苦しんでいた。涙にくれていた彼女にエリは、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(Ⅰサムエル1:17)であった。この「安心して行きなさい」に、「大丈夫」という言葉を当てはめることができる。

 

 6月に押部谷教会で、月2回ゴスペルの練習に会堂を貸しているが、その練習曲の一つが、「愛があなたを待っている 大丈夫」があった。それとなく聞き耳を立てた。オリジナルは市岡裕子さんである。何度も、「大丈夫 大丈夫」と繰り返しでてくる。聞くごとに、何とも言えない安心感が心を包む。悩める人に「大丈夫」という言葉が届けられたらと願うのは私だけだろうか。


2019.8.18

天国を見た人

Ⅱコリント12:2-4

  クリスチャンは、救いの体験を人々の前で話す機会がある。私たちは、どのような人であっても、立派だから救われたのではない。救いは、神の恵み、あわれみによる。だから、胸をはって証しをしたいものである。

 使徒パウロは、他の人が経験したことがない出来事を身に受けている。その一つとして、「この人(パウロ自身)は十四年前に第三の天(パラダイス・天国)にまで引き上げられた 」(12:2) と。私たちは、「生きていて天国に行ってきた」と言う彼の言葉を、まともに受け止めない。これはパウロの体験として聖書に記されているので、すんなり受け入れることができる。

 天国は、私たちの目には見えないだけで、確かに実在する。パウロの経験からして、天国は近いところにあるように思える。主イエスは、天国についてこのように言っている。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」(ヨハネ14:2-3)

2019.8.11

聖霊をいただく

ルカ11:13

 神様だけが与えることができるもの。それは、「救い」「信仰」「聖霊」などである。その中の一つ、聖霊についてである。こういうお言葉がある。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(13)  「聖霊」を、いただける。驚くべきことなのだ。

 上記のみ言葉にあるように、「求めて来る」ものに対していただけるものである。この究極ともいえるいただきものを準備してくださっているということは、どんな願いごとでも聞いてくださっている用意があるというわけである。

 「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14:17)  聖霊は、この世の人々の関心事ではない。「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからで」ある。(同節) 神様は、私たちの内に信仰と聖霊を与えて、助け励まし慰めを与えると共に、内から外に向かって働いてくださるのである。聖霊をいただいて、喜びに満ちた信仰生活を送らせていただこうではないか。

2019.8.4

大宣教命令

マタイ28:19-20

 新約聖書の4つ福音書と使徒行伝には、キリストの大宣教命令が記されている。マタイ28:19-20では、「主の弟子とせよ」と、ある。伝道とは、「主の弟子」とすることである。もっとわかりやすく言うならば、「主の弟子」とするとは、「主のものとなる」ということである。

 

 大宣教命令が発せられたのは、キリストの昇天前であった。聖霊降臨は、エルサレムで起こった。使徒ペテロが、このときに最初のメッセージを語ったところ、3千人の人が一度に洗礼を受けた。最初の教会、エルサレム教会が誕生した。それから、2千年の時が過ぎた。

人種、国、言葉の壁を乗り越えて、福音を拡大し、救われる者が起こされている。

 

 大宣教命令が閉じられる日は必ずくる。「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 」(マタイ24:11)   時は急がれていると思う。一人でも多くの人に福音を届けたいものである。


2019.7.28

帰るところ


ルカ15:1-11

 放蕩息子のたとえは、父親から離れて歩んでいた若者の話しである。その若者(弟息子)は、父親から生前の財産分与を受けた。それを、湯水のように使いはたしたあげく、ききんという追い打ちを受ける。餓死迫る中で、若者は父のもとへ帰る決心をする。

 

 父親は、息子が返ってくるのを、見逃すまいぞと地平線の向こうに目をやりながら、待ち望んでいた。その息子が遠くに歩いているのを見て、父の方から走り寄った。息子は、帰ると決めたときから、悔い改める決心ができていた。

 

 帰るところがある息子。帰るのを待っている父親。罪は赦され、すべてのわだかまりは取り除かれ、以前あったのと少しも違わない、子として受け入れられる。この父とは、神ご自身である。どのような人も神に愛され、受け入れられる。罪を赦す神の愛の大きさは、キリストの十字架にはっきりと示されている。


2019.7.21

出来る限りのことを

マルコ14:8

 私たちは、一つ思い一つ心で前進できればどんなにいいかと思う。現実には、純粋な熱き思いから行った行為が周囲から受け止められないことある。ナルドの香油を主イエスの頭に注いだマリヤであった(マルコ14:1-9)。これにたいして、無駄なことをした。「売れば300デナリにもなり貧しい人々にでも施しが出来ただろう」と、憤るものもいた。

 

 憤ったのは、イスカリオテのユダであった(ヨハネ12:4)。表面的には、正当な発言に聞こえるだろう。主イエスは、マリヤ、そしてユダの心の内をみておられた。マリヤの行為は、意表をつくほどの大胆であった。主は、これを「出来る限りのことをした」と喜ばれた。後の世までマリヤのしたことは、覚えられると評価されたほどだ。

 

 私たちは、人の言葉を聞かなければならない。声に惑わされている限り、主イエスに私たちの純粋な心を届けられないとしてら悲しいとは思わないか。主イエスに今しかできないことがある。改めて言おう。周囲の声に惑わされている限り、主への献身の思いは届けられないかもしれないということを。

2019.7.14

信仰が問われる

ヘブル11:6

   どのようにしたら、神に喜んでいただけるのだろう。答えは、一つだけである。聖書の中にこう述べている。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)と。私たちが信じる神は、肉眼では見ることはできないが、今、ここに居ましたもうお方として仰ぐことが求められている。

 旧約聖書の中にでてくるモーセは、「その名(神の名)はなんというのですか」と、神にたずねてみた。すると、「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)との声があった。英語では、「I am who I am.」となる。人の目では見ることはできないが、「わたしはいるのである」との、意味である。

 クリスチャンは、目では見ることができない神に祈る。その祈りを神に聞かれる。聞いて答えられる。そのことを通して、私たちは神の実在の確信を持つことができる。主イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と、言われた。私たちは、聖書が教えられるとおりに祈る。祈ることも信仰によってである。私たちの信仰は、問われているのである。

2019.7.7

人を生かす言葉

マルコ5:34

 

 主イエスによって長血を患っていた女性が、癒された出来事がマルコ5:25-34に記されている。このところから、一つの出会い、そして一つことばによって、新たな人生を歩みだしているのがわかる。

 

 主イエスによって病いが癒されたのは、この女性がみ衣にさわったことによってであった。この時点では、だれが衣に触れたのかわからなかったのである。主は、ご自分の衣を触ったのがだれかを捜し始められた。探されたのには、理由があった。お言葉をかけたいと思われたからである。「あなたの信仰があなたを救った」(34)  と、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(34)である。

 

 主イエスに対する信仰が、一時だけで終わらず生涯に渡って大切なのを教えたかったのではないか。もう一つは、「安心して‥‥」との励ましの言葉である。人との別れぎわに励みになる言葉をかけてあげたいと思ったことはなかったか。その一言葉があって相手の心を開く。私たちもそのような機会を大切にしたいものである。


2019.6.30

一つになる

詩篇133篇1節

 旧約の時代、エルサレムで行われる三大祭りには、ユダヤ人の成人男子は必ず参加しなくてはならなかった。詩篇には、15の都上りの歌がある。人々は、口々に歌いながら上京したではなかろうか。

 

 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」詩篇133篇1節は、よく知られている。「和合」は、一つになっての意味である。これは、現実的には大変に難しいと思われる。10人寄れば10人とも違いがある。生まれも、言葉も違う。年齢も、違いもある。

 

 互いの違いを認め合いながらも、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)とある。「一致を守り続けるように努め」(同4:3)るべきことが教えられている。「共におるのはいかに麗しく楽しいこと」は、一つになる努力があってこそのものではなかろうか。たとえば、世界の平和を訴えることは大切であるが、自分たちも小さなところから何ができるかを問うてみなければならない。


2019.6.23

楽器を触る

創世記4:21

 21日に、オカリナ・コンサートの音合わせを、神戸バイブル・ハウスで行った。見事なピアノ伴奏で、オカリナの音色を引き上げてくださっているのがわかる。こんなにピアノが人前で弾けたらどんなにいいだろう。そんな思いになった。

 「彼(ユバル)は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。」(創4:21)との、聖句がある。神は、賛美に楽器が必要なのを知って、人に音楽の賜物を与えておられる。そればかりではない。音楽ができれば、人生が豊かになる。嬉しいときも、悲しいときも歌は共にある。

 オカリナは、楽器としての地位を得たのは30年ほど前くらいだと思う。それまでは、楽器としての安定感はなかった。私に、ピアノは無理でも、手元にオカリナがあっていつでも手に取ることができるのはありがたい。あなたが、ユバルを祖としているかどうかはわからない。考えることも意味はない。ハーモニカもよし、リコーダーもよいだろう。あなたも楽器に触れてみたいと願わないだろうか。

2019.6.16

血は肉のいのち

レビ17:11

 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)    キリスト教信仰は、血の信仰といってもよいと思う。

この理解を助ける聖句がある。「すべて肉の命は、その血と一つだから」(レビ17:14)である。今回の一口メモは、血についてである。

 

 血の成分で重要なのは、鉄である。成人男子は、体内にたった3グラムしかない。食生活から鉄分が補われなければ、貧血になる。貧血になると、酸素や栄養が体の隅々まで送れなくなる。そうすると、階段を上ると息切れする。夕暮れ以降ぐったりする。冷え性になる。めまい、動悸の原因にもなる。ウツにもなるという。

 

 不調の原因は、鉄不足にあるかもしれない。わたし自身も、はずかしながら貧血ぎみであることがわかった。腎臓からくるものらしい。1日10mgの鉄分が必要量である。鉄をなめてかかっている暇(いとま)は、私にはない。あなたは、大丈夫だろうか。


2019.6.9

聖霊のバプテスマ

使徒1:5

 福音が全世界に宣べ伝えられる。その働きを担うのが、先に救われた人々である。もう一つ、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)も受け止めておかなくてはならない。なぜだろう。それは、宣教の働きが聖霊の働きによってなされるものだからである。

 

 聖霊のバプテスマとは、「あなたがたは力を受け」とある。宣教や奉仕の働きには、「力」が必要である。私たちは、聖霊の賜物に思いがいくかもしれない。忘れてはならないのは、聖霊はわが内に住まわれ、その人の内から外に向かって働かれる。とすれば、内がきよめられることこそ大切であろう。

 

 聖霊は、ご人格である。そのご人格は、ゼントルマンに譬えられる。きよめられれば、宣教と奉仕に必要な働きの力は備えられるはずである。きよめの恵みを求めたい。

2019.6.2

失望に終わらない希望

ローマ5:5

 「試練」という言葉は、一般の人にはわかりにくいのではないか。それは、試みる者がいるのを前提としているからである。主イエスは、「悪魔に試みられ」ている。マタイ4章にその記録が残されている。試みられたとき、私たちはどのような心境だったか思い起こしてほしい。八方ふさがり、お先まっ暗になったことはなかったか。

 試練に遭遇している間は、トンネルにたとえることができる。その期間は長い短いはあっても、出口がある。その出口には、希望の光が差し込んでいる。神を信じる者には、希望を与えられる。それは、失望に終わらないという。私たちは、肉体的に精神的にも強じんではない。

 なぜ、希望が持てるのか。それは、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)である。私たちは、見るからに弱そうに見えるが、主にあって強いのである。


2019.5.26

十字架の愛

Ⅰヨハネ3:16

 神の愛がわからないという人がある。わからないという人に、「あなたのために死んだ人がいる」というメッセージを伝えたい。そのように聞いて、どのような反応を示すだろうか。聖書の1節には、「主(キリスト)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」(Ⅰヨハネ3:16)と、記されている。ここに、神の愛を見出すことができる。

 

 「わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とは、身代わりの死をいっている。本来、私たちは罪をもってこの世に生を受けた。神は、罪は憎まれる。裁かれなければならなかった。そこで、神はみ子イエス・キリストを十字架に架けて、全人類の罪の身代わりとされたのである。

 

 「わたしたちのために…」とあるから、あなたのためでもある。「…いのちを捨てて下さった」の後に、こう続く。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。」と。神の愛ほど、具体的な愛はないと思う。


2019.5.19

人とは何か

詩篇 8:4

 詩篇にこのような言葉がある。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(詩篇8:4) 私自身にとっては、人とは何者なのかを考える上で、大切な聖句であった。それは、すべての人にとって大切な問いかけである。

 2045年にAI(人工知能)の知性が人間を遥かに超えてしまう。2019年の今、2045年はそれほど先の話ではない。多くの分野で、AIが用いられるようになるのは、避けられない。「人とは何者か」が、この時代だからこそ問われてくるようになるのだと思う。

 AI(人工知能)と人間の違いはどこにあるのだろう。究極的には、「信仰を持っているのが人間」ということになる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6) まことの神なくしては、人は人として正しく生きていくことなど不可能である。


2019.5.12

自分の足で

Ⅱテモテ 1:5

 私たちは、親からさまざまなものを受け継ぐ。テモテは、「祖母ロイスと母ユニケとに宿った」(Ⅱテモテ1:5)信仰的感化の下で育ったと思われる。その信仰は、「あなた(テモテ)にも宿っている」(5)と、述べている。
 信仰が「宿る」とある。キリストを信じる信仰は生まれ持ったものではないからである。信仰は賜物、神から与えられるものである。
その信仰は、「偽りのない」(5)ものでなくてはならない。どこまでも誤りのない神のことばに立っているかが、正・偽の判断基準である。
 年若いテモテは、信仰(福音)の継承者となり、主の働き人になった。2代、3代クリスチャンは、「親がクリスチャンだから自分も信じている」というかもしれない。それは、感謝ではあるが、その一人ひとりが自分の信仰となり、自分の足で歩んでいるかが問われている。信仰の自立こそ大人のクリスチャンである。

2019.5.02

 

あなたの神を愛せよ

 

マルコ 12:30

 人生の目的は、「主なるあなたの神を愛する」(マルコ12:30)ことである。この聖句の前には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」とある。何と「つくす」が4回でてくる。

 改めて「心をつくし、……あなたの神を愛せよ」を、何度も読み直してみる。人生の目的はここにありと明言できる。仕事も家族も大切なのは、わかっている。すべては、マルコ12:30を土台に据えてから、その他の大切な部分を考えよう。

 それは、ただ聖日礼拝に出席するだけの話しではない。私たちの存在すべてをもって、神を愛する者でありたい。幸せな人生。それは、神を見出した人の中に訪れる。なぜなら、「つくす」べきものが何かがはっきりするからである。

 

 

2019.4.28

 

イエスは主なり
   
「あなたは、救いの確信がありますか」と問われるなら、どう答えるだろう。ある人は、教会に行くようになってから、病いが癒された、力をいただいた、慰めを得たとか、幸せになったなどと答えられるかもしれない。
 だからといって、それを聖書が教える救いだと思ってはならない。パウロは、ローマ人への手紙の中でこうしるしている。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」 (10:9 -10) ここで教えられていることは、あなたはイエスをどう見ているかである。
 「イエスは主」の主は、「イエスは神である」との意味である。もう一つ、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる」ことである。イエスの復活を信じるということである。

 

 

2019.4.21

 

昇天後のキリスト


ヘブル 7:25

 キリストが、すべての人のために十字架にお架かりになられた。救いの御業は完了したわけであるが、それだけで人が救われるわけでない。この歴史的事実が、私たち一人びとりに当てはめられなくてはならない。罪の中に滅びが定められていたこの私が、心からなる救いを求めなくてはならない。
 キリストは、十字架後に復活、昇天された。ここで着目していただきたいことがある。昇天後のキリストのお働きである。ヘブル人への手紙7章25節に、「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、…」(25a)とある。そんなにも「とりなし」は大切なのだろうか。
こう後に続く、「彼によって神に来る人人を、いつも救うことができる」(25b)ようにするためである。21世紀の今も、救われる人が起こされている。それは、キリストが今もとりなしておられるからである。

 

 

2019.4.14


大胆であれ


ヘブル 4:16

 控えめな人が好まれるのは、日本社会だけの話しなのだろうか。だからといって、すべてが控えめであっていいわけではない。
このような聖句がある。「大胆に恵みの御座に近づこうではないか」(新改訳2017 :16) 大胆であることが奨励されているからである。
 神の恵みの御座に近づくのは、足がすくむだろう。きよい神に対して生まれながらの罪人である私たちなのだから。
主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、その血によって罪をゆるし、きよめられる。
こうして、主を信じる人は、遠慮することなく恵みの御座に進みでることができる。
私たちの側から大胆に御前に進み出たい。