牧師ひとくちメモ

2020.2.16

罪を赦す権威

マタイ9:1-13

 

 「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)   主イエスは、ご自分がこの世に来られた目的を明らかにしておられる。「罪人を招く」とは、彼が人の罪を赦す権威を持っておられるということである。大切なのは、罪を赦すことができるのは、主イエス以外におられないということである。

 

 中風の癒しの出来事がでてくる。主イエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(6)と、言われる。私たちは、他の聖句と合わせ見て、イエスこそが人となられた神であると受け止めている。主は、私たちの悩みや苦しみを知っておれる。深い愛とあわれみをもって、私たちの弱さを担われる。中風のいやしの出来事が、9章にでてくる。主イエスは、病いに侵された弱い肉体をも担われる。

  

 病いがいやされ、私たちの弱さをも覚えられるのは感謝である。私たちは、主イエスが世に来られた使命が、罪を赦すために来られたのを忘れてはならない。彼のところには、「多くの取税人や罪人たちが」(10)やってきていた。主は、現場主義を貫かれた。高く、遠いところから声をかけられてよしとする方ではなかったのである。


2020.2.9

 

部分

 

 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。(ローマ12章5節)  パウロは、ローマに宛てた手紙の中で、教会は、キリストの体だと言っている。牧師も、その部分に過ぎない。

 

 講壇に立ちメガネを取り出したところ、老眼鏡のツルが外れていてあわてた記憶がある。小さなネジが緩んで抜け落ちたのである。メガネは、レンズを含め14の部品からできている。レンズがあるだけでは役に立たない。

 

 教会も同じである。礼拝一つをとってみても、司会者、奏楽者、説教者、受付、献金、会場、音響の係りがいる。一人何役をこなす場合もあるが、基本的には、それぞれが受け持っている。説教者がいなくては困るが、説教者だけでは礼拝はなりたたない。一人ひとりの存在が大切である。


2020.2.2.

賛美の力

 

 クリスチャンは、神への賛美の献げものをする。礼拝の中ばかりでなく、日常の生活の中でも賛美する。日々、賛美する中で、賛美には不思議な力があるのに気が付かされたことがある。慰められたり、励まされたり、立ち上がらせたりする。

 

  個人時なことであるが、多感な中学生時代に、ちょっとした人生の壁にぶつかったことがある。立ち上がれないほどの苦境に置かれたそのときに、「主われを愛す」という賛美が頭の中に流れはじめて。教会学校の幼稚科さんのときから、歌ってきたので覚えていた。「主われを愛す 主は強ければ  われ弱くとも 恐れはあらじ わが主イエス わが主イエス      わが主イエス われを愛す」 旋律の中にこめられた言葉の力は、賛美の力である。不思議に賛美に助けられて、再び立ち上がることができた。

 

 クリスチャンにとって、神への賛美は、人生の目的そのものである。賛美のない生活は空虚である。「いつくしみ深き」など一般に知られた賛美もある。ご一緒に賛美しようではないか。


2020.1.26

聴くドラマ聖書

 

 スマートフォンで楽しめる聖書アプリ、「聴くドラマ聖書」をご存じであろうか。これは、日本初、本格的なドラマ仕立ての聖書アプリである。聖書の世界をよりリアルに描くため、総配役数1300以上を150人以上の俳優、声優が演じている。大和田伸也さん、奥田瑛二さん、井上芳雄さんをはじめとする有名俳優、声優が出演している。会話が生き生きと表現されていて、目を瞑って聞いていると、まるで映画を見ているような思いになる。

 

 『新改訳2017』の聖書を採用している。臨場感のあるオリジナルのBGMと効果音で聖書の世界に引き込まれる。聖書の一字一句たりとも手を入れてはいない。スマホ画面には、その場面、場面の聖書の言葉がでてくる。耳と目を働かせて、楽しむことができる。

 

 どうして、このような聖書アプリが生み出されたのだろうか。ウォールストリートで活躍してきた、ビル・ファンが、ビジネス問題で挫折していた。そのような中で、自らのルーツともいえる、聖書のオーディオブックに手を伸ばした。落胆した心に、聖書の「ことば」がしみていく。再び立ち上がった彼は、ひとつのビジョンを得た。「ことば」を聴くことによって、ともに人生を生き抜く力を得る文化事業を。財団を起こして、「聴くドラマ聖書」が誕生した。


2020.1.19

高和オカリナclub

 

 高和オカリナclubをスタートしたのは、2017年7月であった。毎月第3日曜日午後1時30分、高和地域福祉センターをお借りできたのは幸いであった。この1月の例会で31回となった。一回も休むことなく行うことができた。始めるきっかけは、「地域に開かれた宣教」のために何ができるだろう。考え、祈って出したのが、オカリナを用いての地域への働きかけであった。

 

 なぜオカリナなのだろう。牧師が活かせる趣味はこれしかなかったからである。信徒さんにも加わっていただける。やっていて楽しくないと長続きはしない。もってこいの楽器である。参加者は、楽譜が読める人ばかりではない。それでも、歳をとってからの楽器はハードルは高い。

 

 それでも、30回も会を重ねれば、遅々たる進歩ではあるがモノになってきている。3年通して、地域とオカリナclub共催で実施する「わくわくクリスマス」は、大きな成果である。最近は、地元の小学校の方から、「継続して」との声がでてくるようになってきた。教会から地域に溶け込まずして、働きの前進はないのではないか。これからも働きを継続していきたいと願っている。



2020.1.12

聖霊によらなければ

 求道中の方から、「救いの決断ができません」と言われたことがある。「理由でもあるのですか」と訊ねると、二つのことが信じられないからだという。「一つは、主イエスは神であること、二つは、主イエスが十字架にお架かりになられたのはわかりますが、よみがえられたということが信じられない」と、返ってきた。

 私は彼と、ローマ10章9節を開いていっしょに読んだ。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」と、あった。だが、人の知恵や知識では信じられないのは不思議ではない。

 Ⅰコリント12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」と、ある。勿論、神について、罪について、救いについて、まず知ってもらうことは大切である。救いは、聖霊が働かれなければ確信には至らないのである。私は、主イエスの救いを信じている。その確固たる確信は、聖霊が証ししてくださっているからに他ならない。

2020.1.5

聖霊に励まされて

使徒9:31

 個人、教会が強められ成長していくためには、励ましが必要である。壁にぶつかった時に、「君なら大丈夫」という言葉を私にかけてくださる人がいた。励まされて立ち上がることができた。教会もまた、聖霊に励まされて前進し続けることができると聖書に記してある。

 

 教会は、福音宣教の使命が与えられている。自らが救われた当時を振り返ると、溢れんばかりの喜びがこみ上げてくる。救われた人々の集まりである教会は、喜びと共に困難をも経験する。今日の日本の教会も試練に立たされている。

 

 70年余り前、キリスト教は青年の宗教と言われた。今は青年よりも高齢者が多い。若い世代が教会に繋がれないのだ。教会の先行きは、必ずしも明るくはない。聖書はこう記している。「主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」(31)  まずは、自らの信仰姿勢を問い直そうではないか。聖霊に励まされて、輝ける主の証し人になろう。1年先、2年先かもしれない。主は魂を備えてくださるに違いない。導きを信じて前進しよう。

2019.12.29

-東方の博士たち- 出会いの旅

 

 東方の博士たちが、はるばる旅をして御子イエス・キリストを礼拝する。これは、四福音書中マタイだけが記した降誕記事である。「わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(2) 彼らをベツレヘムまで先導したのは、星であった。

 

 博士たちの旅は、出会いの旅であった。「ユダヤ人の王としてお生れに」(2)なった方を拝みにとある。実際は、そんなちっぽけな王ではない。「王の王 主の主」(黙示19:16)なる方が、人となってこの世にこられた方を拝むための旅となった。

 

 御子なるイエスのために、博士たちは3つの贈り物を準備した。「黄金、乳香、没薬」(11)である。それぞれの贈り物には、意味がある。中でも「没薬」は、特別な意味を覚える。没薬は死んだ人の体に塗る。つまり、十字架である。イエス・キリストは、すべての人の罪を背負われて、罰を受けられた。博士たちに留まらず、すべての人が人生という旅のどこかで、キリストとの出会いを果たしてほしい。

 

 この出会いのために、人生のすべてをかけるだけの意味がある。あなたは、キリストとの確かな出会いの体験をもっておられるだろうか。


2019.12.22

クリスマス

ルカ2: 11

 

 キリスト降誕は、今から2千年前、ベツレヘムという町での出来事である。この第一報を受けたのは、近くで羊の夜番をしていた羊飼いたちであった。伝えたのは、主の使いで、次のような内容である。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(11) 

 

 主の使いの知らせに、羊飼いたちは恐れを覚えた。彼らは、貧しかったし、社会的な地位もなければ、宗教的にも縁遠かったからである。彼らは、急いでいって、マリヤとヨセフ、飼い葉桶に寝かせられているイエスを捜し当てた。

 

 「いれまつる家あらず 休めまつる宿もあらず ただむさき馬小屋を 仮の宿となしたもう」(新聖歌87番) 神が人の姿をとってこの世に降られたのを知れば知るほどに、感謝があふれてくる。その主は、貧しくなられた。私たちは、どのような思いでクリスマスを迎えるのだろうか。マタイ1、2章、ルカ1、2章、ヨハネ1章を味読してみよう。クリスマスの意味を知って、この日を迎えたいものである。


2019.12.15

神が人となり

ヨハネ1: 1、14

 

 ヨハネによる福音書は、不思議な書き出しから始まっている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 言は初めに神と共にあった。 」(1:1-2)   「初めに言があった」は、どう理解したらよいのだろう。創世記1章3節を開いてみると、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とある。この「言われた」に焦点を当てて、「初めに言があった」を見てみると、何となくわかった思いになるかもしれない。

 

 神は、「言」をもって天地・宇宙・万物を創造されたのはわかる。この神こそは、「ことばなる神」である。これから先がある。「ことばなる神」は、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14)とある。このお方が、イエス・キリストであると聖書の中に書いてある。

神が人となってこの世に来られたのは、よほどのことである。

 

 なぜによほどなのだろう。神の目を通しての、この世は「闇」なのだという。闇の中にある人々を救うために世に来られたのである。より具体的に言うならば、私たちを罪から救うために、自ら十字架にお架かりになられたのである。神の御名をほめたたえようではないか。

2019.12.8

2つの名前

マタイ1:21

 

 イエス・キリストの母マリヤは、聖霊によって身ごもった。いいなづけのヨセフは、その事実を知らなかった。マリヤのお腹は膨らんでいく中にあって、ヨセフの気持ちは萎んでいくばかりである。彼は、離縁をも考え始めるようになる。そうした状況下にあって、神ご自身が御使いを通して動かれた。

 

 ヨセフが寝静まっていたときに、御使いが夢に現れてマリヤ関する事の次第を伝えた。私たちも、さまざまな問題が生じたときには、まずは事実を正しく伝えることが大切である。御使いは、事の次第を伝える中に、「心配しないで」との言葉を挟んだ。私たちは、問題を抱えたときに「大丈夫」という言葉を耳にしたいと願うだろう。

 

 なおも、御使いはヨセフに告げる。それは、生まれてくる幼な子の名前である。一つは、「イエス」で、神は救いの意味である。もう一つは、「インマヌエル」で、「われらと共にいます」の意味である。2つの名前は、イエスのみ働きを表している。「名は体を表す」という故事があるが、主イエスのご生涯を名が示すとおりであった。御使いからの知らせを受けて、ヨセフと身重のマリヤはベツレヘムまで旅をして、そこで御子イエス・キリストが誕生したのである。


2019.12.1

ローソクを灯して

 12月1日の聖日からアドベント(待降節)に入る。この聖日には、1本目のローソクに火が灯る。8日には2本を灯し、15日には3本、22日のクリスマスには4本すべてを灯す。クリスマスまでの時を知らせる役割りをローソクが果たしている。

 ローソクの火を見ていると、次々と聖句が脳裏に浮かぶ。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)。「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19 - 20) 罪人が救われて、「光に来る」(21)ことは、自分の力ではできるものではない。ただただ恵みによる以外にない。感謝が湧き上がってくる。

 今、「ローソクの科学」(ファラデー著)が脚光を浴びている。ノーベル化学賞受賞者、吉野彰氏はこう話している。「小学校の先生の勧めで、この一冊を読んだのがきっかけで、科学者の道に進むようになった」とのこと。そこで、ファラデーについて調べてみた。「父ジェームスの信仰を受け継いだクリスチャンである。教会では、司祭を補佐する仕事も経験していて、集会の長老も二期つとめるなど、その信仰は熱心であった」のがわかった。正月、読み直してみたいと思う。


2019.11.24

一章入魂 

 

 魚べいという寿司屋の看板に、「一貫入魂」の文字を発見した。日ごろは冷めたモノの見方をしていても、ならば入ってみようかとの思いになった私である。ところで、私たちクリスチャンは、聖書のあちらこちらを開いて、御言葉のつまみ食いをして満足していないだろうか。それも一つの聖書の楽しみ方なのだとは思うが。

 

 「一貫入魂」を文字って、「一章入魂」という聖書の読み方をオススメしたい。飛ばすことなく1章を丹念に読み、また読み直し、重ねて読む。それから、次の章も同じように読んでいく。そうしていくうちに、多くの発見がある。たとえば、マタイの1章を開くとしよう。系図がでてくる。系図中5人の女の名前がでてくる。そのことにお気づきだろうか。

 

 「それがどうした」と、言葉が返ってくるかもしれない。最後の一人は、イエスの母マリヤである。後の4人がどういう人だったか旧約聖書を調べることになる。その調べた結果をもって、再びマタイの1章を読んでみよう。舌を噛みそうな名前の羅列にも、深い意味があったのだとわかる。11月20日の祈祷会から、「一章入魂」の思いでマタイの福音書を皮切りに、聖書を学び始めた。27日は、マタイ2章が開かれる。

2019.11.17

神の時

伝道の書3:11

 

 ソロモン王は、神がその時々になされる御業を、「美しい」と表現している。豊岡で牧会していた当時、30分ほど離れた八鹿(ようか)から、礼拝に来ていた3人の老婦人がおられた。そのお一人が、「小さな畑で葉物を育てていますが、その生育を見ておりますと、神様のお働きがよくわかります」と、話しておられた。

 

 人それぞれ「神の時」を、いつどのような出来事から覚えるかは違っている。私が最近、使徒の働き11章を読んだ。その中にアンテオケ教会について記されてあった。

 

エルサレム教会の迫害によって、散らされた聖徒の一部がアンテオケに来た。そこは、国外でありギリシャ語しか通じない。福音を語ったところ、大勢が信じた。エルサレム教会は、バルナバを派遣。続いて、サウロ(後のパウロ)が働きに加わる。

言わば複数牧会。アンテオケ教会は、飢饉があったユダヤに住む人々を救援する。この一連の働きは、鮮やかな聖霊の御業である。

 

 こうした出来事は、ほんの一部にすぎない。聖書の中にも、自然界の中にも、日常生活の中にも、教会の中にあっても、神のみ働きを受け止めたいと願う。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(3:11) 私たちは、その時々の神の御業を、どのように表現するだろう。



2019.11.10

宣教の重荷を

Ⅱテモテ4:2

 

 テモテは、幼いころより聖書教育を受け、祖母と母から信仰を継承した。言わば、2代目か3代目のクリスチャンということになる。若くして信仰を持つことができたのは幸いである。この時期の、彼の信仰生活は波一つ立たないような、守られた中での歩みではなかっただろうか。パウロの第2次伝道旅行には、テモテを選び同伴した。おそらく、彼が20代ではなかったかと思われる。

 

 テモテはパウロと離れて、主の働きに従事していた。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」と、書き送ってをいる。いざ、働きの現場に入ると、親元で信仰生活していたころとは、ガラッと状況が変わる。悩みの中にあったテモテに、パウロは手紙を送る。

 

 「耳ざわりのよい話」で人を集めようとするなと。それは、主の言葉を語るものとしては不適である。テモテにこうも奨める。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)   私たちにも求められていること、それは主から託された御言葉を宣べ伝えることにある。


 

2019.11.3

出会いが人生を変える

ルカ5:4 - 5

 一度の出会いが人生を変えることがある。ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペテロもその一人である。夜どうし漁をしたが、何も取れずに陸(おか)に上がったシモンの舟に主は乗り込んだ。そして、少し岸から離れるように求めた。そこから、群衆に話された。一番、間近かで話を聞いていたのは、シモンであった。

 そのシモンに、主はさらなる要求をされた。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(4)。シモンは、そのようにしたところ、おびただしい漁の魚が取れた。夜どおしの漁での不漁から、一変して大漁となった。シモンが、驚くべき結果を得たのは、主のお言葉どおりに従ったからである。

 この出来事を通じて、シモンは、目の前におられるお方が誰であるかを知った。主はシモンに「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(9) と、話された。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。 」(10)  これを機に、シモンと、他の漁師たちは主の弟子になった。私たちは、主イエスとの出会いを体験しているだろうか。


2019.10.27

キリストの招き

マタイ9:9

 

  今から2千年前、ユダヤ社会で嫌われていたのが取税人である。主イエスは、マタイという名の取税人に「わたしに従ってきなさい」を声をかけられた。なぜ、取税人がきらわれたのだろう。それは、ローマの手先となり、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から税を取り立てていたからである。

 

 イエスに従っていったマタイは、食事を共にした。席を共にしていたのは、多くの取税人や罪人たちであった。これを見たパリサイ人は、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(11)と、声をあげた。

 

 私たちは、マタイ9:9-13を読みながら、主イエスは、どのような人をも招いておられるのがわかる。私たちは、自分にとって役立つ人、利益になる人、気に入った人を招くのではなかろうか。私たちは、主イエスから招かれた一人である。今も主は、「来たれ」と声をかけておられる。


2019.10.20

自らを差し出す

ローマ12:1

 

    どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(1)という。

 

 「霊的な礼拝」は、「神にみ心にかなった礼拝」と受け止めればよい。その礼拝には、「生きた、聖なる供え物」が求められる。「供え物」とは、「神に差し出す物」というわけである。何を差し出すか。それは、「あなたがたの体」である。つまり、あなた自身の身も霊もお捧げするのである。

 

 私たちの教会は、礼拝を含めてどのような集会にも、喜んで来ていただきたいと願っている。だが、あえて言わせていただけるとしたら、礼拝は、主のみ救いをいただいた人に求められている。身も霊もお捧げするのは、救われたことに対する感謝なくしてはできないからである。あなたは、どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。


2019.10.13

 

死は勝利にのまれて

 

Ⅰコリント15:55

 

  「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)   すべての人は罪を犯す。如何ともし難いことである。私たちは、さまざまな問題に処することができたとしても、「罪」に対しては、成すすべがない。全人類の敵は、「死」である。

 

 その私たちに、「永遠のいのち」がいただくことができる。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。 」(同23) 救い主イエス・キリストの恵みによって、罪ゆるされ、霊的な生まれかわることができる。これを新生といっている。救われた私たちは、朽ちる肉体を持っている。肉体は贖われないのだろうか。

 

 将来、携挙というできごとが起こる。そのときに、主とともに、先に主によって召された人がよみがえる。これを死人の復活という。その時に、「死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられる」 「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 」(Ⅰコリ15:52)  と、パウロは記している。

 

 この時に、肉体が完全に贖われたことになる。死人の復活の出来事を通して、死は、敗北でなく。「死は勝利にのまれてしま」うことになる。(55)


2019.10.6

プラス愛でいこう

コロサイ3:14

 

  あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、互に忍びあい、もし互に責むべきことがあればゆるし合う(12-13)。パウロは、クリスチャンに対して高い標準を示す。それで終わらない。「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。」(14)  つまり、プラス愛である。キリスト教は、愛とゆるしの教えと言われることがある。その通りだとおもう。

 

 愛とゆるしの教えは受ける者にはありがたい。人は自己中心な生き物である。与える者への道は、はなはだ険しい道に思える。理想と現実のギャップに悩む人もいるだろう。自分の力で成し遂げるのはむずかしい。わたしも、そうだと思う。

 

 唯一の方法がある。主イエスの心を心とすることである。主が、私たちの罪ゆえ十字架にお架かりになられた。それは、愛ゆえである。このお方から目を離すことなく、わが身になされたゆるしの恵みの大きさから目を離さなければ、主の標準を歩むことができると信じている。


2019.9.29

揺るぎない信仰

使徒11:23

    世の中の仕組みがより複雑になってきていると思う。ここ最近まで交通系ICカードICOKAの使用を躊躇していた。今は、便利さを知り用いている。価値の多様化、温暖化きていると思われる異常気象などなど、多くの人が将来に対する不安を覚えているのではなかろうか。

 

 エルサレム教会は、「バルナバをアンテオケにつかわした。」(22)   そして、「信仰を揺るがない心で持ちつづけるよう」(23)、みんなの者を励ました。わたしたちがどんなにまっとうな歩みをしていても、思いもおよばない中を通される。ちょっとしたことで信仰を見失うようなことがあっていいわけでない。バルナバの奨励は、ときに私たちに向けての言葉でもある。

 

 考えてみてほしい。今から25年前に、阪神淡路大震災が起こった。地が揺るいたのだ。70年、80年の生涯の中では大きな出来事に巻き込まれることがある。たといそうでも、信仰だけは揺るがないでほしい。立ち続けてほしい。


 

2019.9.22

天に召される

Ⅱコリント5:1

 

 クリスチャンの死を、「召天」という言い方をする。「昇天」は、キリストが復活して40日後に天に上げられたできごとを指している。召天と昇天は、同音異義語であるので使い分けて用い、理解したいものである。

 

 死んだ先について聖書には記している。「すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」(5:1)  私たちもいずれ、この地上を離れて、天にある永遠の家に入ることになる。

 

 愛する者との死別は、悲しくもあり寂しくもある。聖書には、「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩篇116篇15節)とある。悲しみの中にも、主が召され、永遠の住まいの中に招き入れられていることを信じようではないか。


2019.9.15

 

柔軟性を養う

 

ピリピ4:11-13

 

 ぶれない信仰を大切に、さまざまな出来事に柔軟に対応していければと願っている。使徒パウロは、この2つを持ち合わせた人物ではなかろうか。長い信仰者の歩みを通して、培われてきたものである。彼が獄中から記した手紙の中に、次のような言葉がでてくる。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(4:11)

 

 ユダヤ人だったパウロが、回心してキリスト教徒になった。特に、異邦人に向けて宣教の働きを担う。迫害の中にあっても、宣教の情熱は消えることがなかった。「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」の言葉には、余裕さえ感じ取れる。

 

 おそらくは、異邦人、異教社会での宣教は、柔軟な心の持ち主でなければ対処できないことばかりであったでしょう。日本宣教の前進を願うなら、ぶれない信仰、柔軟性を持ってことに当たる他ないのではないか。


2019.9.8

 

再出発

創世記12:4

 

  9月1日の聖日礼拝は、長寿祝福礼拝であった。当教会で祝福を受ける年齢が75歳以上ということにしている。聖書を見ると、1箇所だけ、「75歳」がでてくる。「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」(4)

 

 75歳は、余生に生きる年齢である。アブラハムは、その年齢にして新たなる出発をすることになった。私たちは、自覚的に生きているという面だけでなく、神に生かされているという両面を持ち合わせたいものである。

 

 「生かされている」の思いは、神さまが私の中になおも使命を与えておられる、残しておられると繋がる。使命は、確実に生きる力になる。漠然と生きているより、神に生かされて使命に生きるを自覚できればと願う。

2019.9.1

休ませてあげよう

マタイ11:28

 私は18歳で社会人になった。すでに週休制2日になっていた。教会生活を考慮して、土日が休みの会社を選んだ。休みはなんのためにあるのだろうか。リフレッシュのためである。元気を回復させる意味がある。

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたを休ませてあげよう」(28)と、約束された。彼らは、主の働き(重荷)を身に受けて霊肉ともに疲れ切ってしまったのであろう。

 疲れ切ってしまっては、良い働きはできない。背負い込みすぎては、倒れてしまう。働きには、持続が求められるとしたら、2つのことが大切である。1つは、適切に休みを与える。2つは、荷を負いやすくすることである。主は、2つともに心得ておられる。

2019.8.25

大丈夫・大丈夫

Ⅰサムエル1:17

 私たちは、大なり小なり困りごとを持っている。明日を生きる力が枯渇していることもある。そんなときに「大丈夫」と言ってくれる人があればと思う。 

 

 Ⅰサムエル記1章に、ハンナがでてくる。子どもが与えられなくて悩み苦しんでいた。涙にくれていた彼女にエリは、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(Ⅰサムエル1:17)であった。この「安心して行きなさい」に、「大丈夫」という言葉を当てはめることができる。

 

 6月に押部谷教会で、月2回ゴスペルの練習に会堂を貸しているが、その練習曲の一つが、「愛があなたを待っている 大丈夫」があった。それとなく聞き耳を立てた。オリジナルは市岡裕子さんである。何度も、「大丈夫 大丈夫」と繰り返しでてくる。聞くごとに、何とも言えない安心感が心を包む。悩める人に「大丈夫」という言葉が届けられたらと願うのは私だけだろうか。


2019.8.18

天国を見た人

Ⅱコリント12:2-4

  クリスチャンは、救いの体験を人々の前で話す機会がある。私たちは、どのような人であっても、立派だから救われたのではない。救いは、神の恵み、あわれみによる。だから、胸をはって証しをしたいものである。

 使徒パウロは、他の人が経験したことがない出来事を身に受けている。その一つとして、「この人(パウロ自身)は十四年前に第三の天(パラダイス・天国)にまで引き上げられた 」(12:2) と。私たちは、「生きていて天国に行ってきた」と言う彼の言葉を、まともに受け止めない。これはパウロの体験として聖書に記されているので、すんなり受け入れることができる。

 天国は、私たちの目には見えないだけで、確かに実在する。パウロの経験からして、天国は近いところにあるように思える。主イエスは、天国についてこのように言っている。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」(ヨハネ14:2-3)

2019.8.11

聖霊をいただく

ルカ11:13

 神様だけが与えることができるもの。それは、「救い」「信仰」「聖霊」などである。その中の一つ、聖霊についてである。こういうお言葉がある。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(13)  「聖霊」を、いただける。驚くべきことなのだ。

 上記のみ言葉にあるように、「求めて来る」ものに対していただけるものである。この究極ともいえるいただきものを準備してくださっているということは、どんな願いごとでも聞いてくださっている用意があるというわけである。

 「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14:17)  聖霊は、この世の人々の関心事ではない。「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからで」ある。(同節) 神様は、私たちの内に信仰と聖霊を与えて、助け励まし慰めを与えると共に、内から外に向かって働いてくださるのである。聖霊をいただいて、喜びに満ちた信仰生活を送らせていただこうではないか。

2019.8.4

大宣教命令

マタイ28:19-20

 新約聖書の4つ福音書と使徒行伝には、キリストの大宣教命令が記されている。マタイ28:19-20では、「主の弟子とせよ」と、ある。伝道とは、「主の弟子」とすることである。もっとわかりやすく言うならば、「主の弟子」とするとは、「主のものとなる」ということである。

 

 大宣教命令が発せられたのは、キリストの昇天前であった。聖霊降臨は、エルサレムで起こった。使徒ペテロが、このときに最初のメッセージを語ったところ、3千人の人が一度に洗礼を受けた。最初の教会、エルサレム教会が誕生した。それから、2千年の時が過ぎた。

人種、国、言葉の壁を乗り越えて、福音を拡大し、救われる者が起こされている。

 

 大宣教命令が閉じられる日は必ずくる。「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 」(マタイ24:11)   時は急がれていると思う。一人でも多くの人に福音を届けたいものである。


2019.7.28

帰るところ


ルカ15:1-11

 放蕩息子のたとえは、父親から離れて歩んでいた若者の話しである。その若者(弟息子)は、父親から生前の財産分与を受けた。それを、湯水のように使いはたしたあげく、ききんという追い打ちを受ける。餓死迫る中で、若者は父のもとへ帰る決心をする。

 

 父親は、息子が返ってくるのを、見逃すまいぞと地平線の向こうに目をやりながら、待ち望んでいた。その息子が遠くに歩いているのを見て、父の方から走り寄った。息子は、帰ると決めたときから、悔い改める決心ができていた。

 

 帰るところがある息子。帰るのを待っている父親。罪は赦され、すべてのわだかまりは取り除かれ、以前あったのと少しも違わない、子として受け入れられる。この父とは、神ご自身である。どのような人も神に愛され、受け入れられる。罪を赦す神の愛の大きさは、キリストの十字架にはっきりと示されている。


2019.7.21

出来る限りのことを

マルコ14:8

 私たちは、一つ思い一つ心で前進できればどんなにいいかと思う。現実には、純粋な熱き思いから行った行為が周囲から受け止められないことある。ナルドの香油を主イエスの頭に注いだマリヤであった(マルコ14:1-9)。これにたいして、無駄なことをした。「売れば300デナリにもなり貧しい人々にでも施しが出来ただろう」と、憤るものもいた。

 

 憤ったのは、イスカリオテのユダであった(ヨハネ12:4)。表面的には、正当な発言に聞こえるだろう。主イエスは、マリヤ、そしてユダの心の内をみておられた。マリヤの行為は、意表をつくほどの大胆であった。主は、これを「出来る限りのことをした」と喜ばれた。後の世までマリヤのしたことは、覚えられると評価されたほどだ。

 

 私たちは、人の言葉を聞かなければならない。声に惑わされている限り、主イエスに私たちの純粋な心を届けられないとしてら悲しいとは思わないか。主イエスに今しかできないことがある。改めて言おう。周囲の声に惑わされている限り、主への献身の思いは届けられないかもしれないということを。

2019.7.14

信仰が問われる

ヘブル11:6

   どのようにしたら、神に喜んでいただけるのだろう。答えは、一つだけである。聖書の中にこう述べている。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)と。私たちが信じる神は、肉眼では見ることはできないが、今、ここに居ましたもうお方として仰ぐことが求められている。

 旧約聖書の中にでてくるモーセは、「その名(神の名)はなんというのですか」と、神にたずねてみた。すると、「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)との声があった。英語では、「I am who I am.」となる。人の目では見ることはできないが、「わたしはいるのである」との、意味である。

 クリスチャンは、目では見ることができない神に祈る。その祈りを神に聞かれる。聞いて答えられる。そのことを通して、私たちは神の実在の確信を持つことができる。主イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と、言われた。私たちは、聖書が教えられるとおりに祈る。祈ることも信仰によってである。私たちの信仰は、問われているのである。

2019.7.7

人を生かす言葉

マルコ5:34

 

 主イエスによって長血を患っていた女性が、癒された出来事がマルコ5:25-34に記されている。このところから、一つの出会い、そして一つことばによって、新たな人生を歩みだしているのがわかる。

 

 主イエスによって病いが癒されたのは、この女性がみ衣にさわったことによってであった。この時点では、だれが衣に触れたのかわからなかったのである。主は、ご自分の衣を触ったのがだれかを捜し始められた。探されたのには、理由があった。お言葉をかけたいと思われたからである。「あなたの信仰があなたを救った」(34)  と、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(34)である。

 

 主イエスに対する信仰が、一時だけで終わらず生涯に渡って大切なのを教えたかったのではないか。もう一つは、「安心して‥‥」との励ましの言葉である。人との別れぎわに励みになる言葉をかけてあげたいと思ったことはなかったか。その一言葉があって相手の心を開く。私たちもそのような機会を大切にしたいものである。


2019.6.30

一つになる

詩篇133篇1節

 旧約の時代、エルサレムで行われる三大祭りには、ユダヤ人の成人男子は必ず参加しなくてはならなかった。詩篇には、15の都上りの歌がある。人々は、口々に歌いながら上京したではなかろうか。

 

 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」詩篇133篇1節は、よく知られている。「和合」は、一つになっての意味である。これは、現実的には大変に難しいと思われる。10人寄れば10人とも違いがある。生まれも、言葉も違う。年齢も、違いもある。

 

 互いの違いを認め合いながらも、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)とある。「一致を守り続けるように努め」(同4:3)るべきことが教えられている。「共におるのはいかに麗しく楽しいこと」は、一つになる努力があってこそのものではなかろうか。たとえば、世界の平和を訴えることは大切であるが、自分たちも小さなところから何ができるかを問うてみなければならない。


2019.6.23

楽器を触る

創世記4:21

 21日に、オカリナ・コンサートの音合わせを、神戸バイブル・ハウスで行った。見事なピアノ伴奏で、オカリナの音色を引き上げてくださっているのがわかる。こんなにピアノが人前で弾けたらどんなにいいだろう。そんな思いになった。

 「彼(ユバル)は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。」(創4:21)との、聖句がある。神は、賛美に楽器が必要なのを知って、人に音楽の賜物を与えておられる。そればかりではない。音楽ができれば、人生が豊かになる。嬉しいときも、悲しいときも歌は共にある。

 オカリナは、楽器としての地位を得たのは30年ほど前くらいだと思う。それまでは、楽器としての安定感はなかった。私に、ピアノは無理でも、手元にオカリナがあっていつでも手に取ることができるのはありがたい。あなたが、ユバルを祖としているかどうかはわからない。考えることも意味はない。ハーモニカもよし、リコーダーもよいだろう。あなたも楽器に触れてみたいと願わないだろうか。

2019.6.16

血は肉のいのち

レビ17:11

 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)    キリスト教信仰は、血の信仰といってもよいと思う。

この理解を助ける聖句がある。「すべて肉の命は、その血と一つだから」(レビ17:14)である。今回の一口メモは、血についてである。

 

 血の成分で重要なのは、鉄である。成人男子は、体内にたった3グラムしかない。食生活から鉄分が補われなければ、貧血になる。貧血になると、酸素や栄養が体の隅々まで送れなくなる。そうすると、階段を上ると息切れする。夕暮れ以降ぐったりする。冷え性になる。めまい、動悸の原因にもなる。ウツにもなるという。

 

 不調の原因は、鉄不足にあるかもしれない。わたし自身も、はずかしながら貧血ぎみであることがわかった。腎臓からくるものらしい。1日10mgの鉄分が必要量である。鉄をなめてかかっている暇(いとま)は、私にはない。あなたは、大丈夫だろうか。


2019.6.9

聖霊のバプテスマ

使徒1:5

 福音が全世界に宣べ伝えられる。その働きを担うのが、先に救われた人々である。もう一つ、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)も受け止めておかなくてはならない。なぜだろう。それは、宣教の働きが聖霊の働きによってなされるものだからである。

 

 聖霊のバプテスマとは、「あなたがたは力を受け」とある。宣教や奉仕の働きには、「力」が必要である。私たちは、聖霊の賜物に思いがいくかもしれない。忘れてはならないのは、聖霊はわが内に住まわれ、その人の内から外に向かって働かれる。とすれば、内がきよめられることこそ大切であろう。

 

 聖霊は、ご人格である。そのご人格は、ゼントルマンに譬えられる。きよめられれば、宣教と奉仕に必要な働きの力は備えられるはずである。きよめの恵みを求めたい。

2019.6.2

失望に終わらない希望

ローマ5:5

 「試練」という言葉は、一般の人にはわかりにくいのではないか。それは、試みる者がいるのを前提としているからである。主イエスは、「悪魔に試みられ」ている。マタイ4章にその記録が残されている。試みられたとき、私たちはどのような心境だったか思い起こしてほしい。八方ふさがり、お先まっ暗になったことはなかったか。

 試練に遭遇している間は、トンネルにたとえることができる。その期間は長い短いはあっても、出口がある。その出口には、希望の光が差し込んでいる。神を信じる者には、希望を与えられる。それは、失望に終わらないという。私たちは、肉体的に精神的にも強じんではない。

 なぜ、希望が持てるのか。それは、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)である。私たちは、見るからに弱そうに見えるが、主にあって強いのである。


2019.5.26

十字架の愛

Ⅰヨハネ3:16

 神の愛がわからないという人がある。わからないという人に、「あなたのために死んだ人がいる」というメッセージを伝えたい。そのように聞いて、どのような反応を示すだろうか。聖書の1節には、「主(キリスト)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」(Ⅰヨハネ3:16)と、記されている。ここに、神の愛を見出すことができる。

 

 「わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とは、身代わりの死をいっている。本来、私たちは罪をもってこの世に生を受けた。神は、罪は憎まれる。裁かれなければならなかった。そこで、神はみ子イエス・キリストを十字架に架けて、全人類の罪の身代わりとされたのである。

 

 「わたしたちのために…」とあるから、あなたのためでもある。「…いのちを捨てて下さった」の後に、こう続く。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。」と。神の愛ほど、具体的な愛はないと思う。


2019.5.19

人とは何か

詩篇 8:4

 詩篇にこのような言葉がある。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(詩篇8:4) 私自身にとっては、人とは何者なのかを考える上で、大切な聖句であった。それは、すべての人にとって大切な問いかけである。

 2045年にAI(人工知能)の知性が人間を遥かに超えてしまう。2019年の今、2045年はそれほど先の話ではない。多くの分野で、AIが用いられるようになるのは、避けられない。「人とは何者か」が、この時代だからこそ問われてくるようになるのだと思う。

 AI(人工知能)と人間の違いはどこにあるのだろう。究極的には、「信仰を持っているのが人間」ということになる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6) まことの神なくしては、人は人として正しく生きていくことなど不可能である。


2019.5.12

自分の足で

Ⅱテモテ 1:5

 私たちは、親からさまざまなものを受け継ぐ。テモテは、「祖母ロイスと母ユニケとに宿った」(Ⅱテモテ1:5)信仰的感化の下で育ったと思われる。その信仰は、「あなた(テモテ)にも宿っている」(5)と、述べている。
 信仰が「宿る」とある。キリストを信じる信仰は生まれ持ったものではないからである。信仰は賜物、神から与えられるものである。
その信仰は、「偽りのない」(5)ものでなくてはならない。どこまでも誤りのない神のことばに立っているかが、正・偽の判断基準である。
 年若いテモテは、信仰(福音)の継承者となり、主の働き人になった。2代、3代クリスチャンは、「親がクリスチャンだから自分も信じている」というかもしれない。それは、感謝ではあるが、その一人ひとりが自分の信仰となり、自分の足で歩んでいるかが問われている。信仰の自立こそ大人のクリスチャンである。

2019.5.02

 

あなたの神を愛せよ

 

マルコ 12:30

 人生の目的は、「主なるあなたの神を愛する」(マルコ12:30)ことである。この聖句の前には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」とある。何と「つくす」が4回でてくる。

 改めて「心をつくし、……あなたの神を愛せよ」を、何度も読み直してみる。人生の目的はここにありと明言できる。仕事も家族も大切なのは、わかっている。すべては、マルコ12:30を土台に据えてから、その他の大切な部分を考えよう。

 それは、ただ聖日礼拝に出席するだけの話しではない。私たちの存在すべてをもって、神を愛する者でありたい。幸せな人生。それは、神を見出した人の中に訪れる。なぜなら、「つくす」べきものが何かがはっきりするからである。

 

 

2019.4.28

 

イエスは主なり
   
「あなたは、救いの確信がありますか」と問われるなら、どう答えるだろう。ある人は、教会に行くようになってから、病いが癒された、力をいただいた、慰めを得たとか、幸せになったなどと答えられるかもしれない。
 だからといって、それを聖書が教える救いだと思ってはならない。パウロは、ローマ人への手紙の中でこうしるしている。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」 (10:9 -10) ここで教えられていることは、あなたはイエスをどう見ているかである。
 「イエスは主」の主は、「イエスは神である」との意味である。もう一つ、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる」ことである。イエスの復活を信じるということである。

 

 

2019.4.21

 

昇天後のキリスト


ヘブル 7:25

 キリストが、すべての人のために十字架にお架かりになられた。救いの御業は完了したわけであるが、それだけで人が救われるわけでない。この歴史的事実が、私たち一人びとりに当てはめられなくてはならない。罪の中に滅びが定められていたこの私が、心からなる救いを求めなくてはならない。
 キリストは、十字架後に復活、昇天された。ここで着目していただきたいことがある。昇天後のキリストのお働きである。ヘブル人への手紙7章25節に、「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、…」(25a)とある。そんなにも「とりなし」は大切なのだろうか。
こう後に続く、「彼によって神に来る人人を、いつも救うことができる」(25b)ようにするためである。21世紀の今も、救われる人が起こされている。それは、キリストが今もとりなしておられるからである。

 

 

2019.4.14


大胆であれ


ヘブル 4:16

 控えめな人が好まれるのは、日本社会だけの話しなのだろうか。だからといって、すべてが控えめであっていいわけではない。
このような聖句がある。「大胆に恵みの御座に近づこうではないか」(新改訳2017 :16) 大胆であることが奨励されているからである。
 神の恵みの御座に近づくのは、足がすくむだろう。きよい神に対して生まれながらの罪人である私たちなのだから。
主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、その血によって罪をゆるし、きよめられる。
こうして、主を信じる人は、遠慮することなく恵みの御座に進みでることができる。
私たちの側から大胆に御前に進み出たい。