牧師ひとくちメモ

2021.9.26

幸せなら手を叩こう

 

すべての国々の民よ 手をたたけ。 
喜びの声をもって 神に大声で叫べ。
   (詩篇47篇1節)

 

 詩篇47篇1節のみことばは、感動そのものである。どうしたらそのような状況になるのだろう。一人机に座って考えていました。この1節は、よほどの大きな出来事があったからであろう。東西両ドイツを隔てていた壁が破られた出来事をイメージしていた。それは、平和のおとずれを意味するものであった。

 

 「幸せなら手を叩こう」の誕生秘話を知る機会があった。作詞した早稲田大学の教授で、キリスト者である木村利人(りひと)について記した小さな読み物を手にしたからだ。彼が1959年、フィリピンでの農村復興ワークキャンプに参加したときの出来事がことのはじまりだった。戦時中に、日本軍の侵略により大きな被害を受け、日本人への憎しみを懐いていたフィリピンのキャンパーの一人がキリストによって、その苦しみと悲しみが癒やされたことを涙ながらに語っていた。それを聞いた参加していた日本人はみんな心の痛みを覚えた。加害者である日本の罪の赦しを請い、神に祈り、お互いに平和を誓った。そのように記されてあった。

 

 

 みなが世界の平和を求め、それがなったときに人々は心からの喜びを表すようになるのではないか。平和の祭典と言われるオリンピックが終わった。私たちは、平和を心から実感できたであろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.9.19


みことばが働いています

 

「私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。    (Ⅰテサロニケ2・13)

 

 コロナ・ワクチン接種。中和抗体ができて私たちのうちに働いている。そんなことを考えていましたら、「神のことばも、信じている私たちのうちに働いています。」のみことばがふと思い出されてきた。1章6節には、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。 」とある。

 

 「多くの苦難の中で、……みことばを受け入れ」た、みことばはホンモノである。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いてい」るからである。大切にしたいのは、神のみことばを信じる信仰である。思い返せば、1980年に神学校を卒業して41年 何をしてきたのか問われれば、み言葉と取り組んだというのは偽りないところである。

 

 きょうも、明日も、みことばを語りたいと願わされる。みことばに生きようではないか。では。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.9.12

忍耐の日々

 

 8月15日からZOOM中心の礼拝に切り替えました。9月12日までの緊急事態宣言だったものが9月いっぱいまで継続となったからである。聖日礼拝は、クリスチャンにとって何より大切な集まりである。何ともやるせない思いになる。パウロは、ローマに宛てた手紙の中で、「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っていますからです。」(5:3-4)と記している。新型コロナは、私たちクリスチャンに耐える大切さを教えているように思える。

 

 救われた当初は有頂天だったかもしれない。70年、80年の人生にあっては耐え忍ばなければならない出来事に遭遇するかもしれない。本当の救いをいただいているのなら、多少の出来事があっても揺り動かされることはないだろう。だからといって、私たちは、強くはない。

パウロは、続く5節の中でこのように記している。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれていますからです。」(5:5) 自分の力で信仰を守り通せとは言われてはいない。絶えず、神の愛の供給が続けられているのである。

 

 

 きっと、新型コロナも終息するだろう。もうしばらく忍耐することとしよう。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.9.5

祝祷を受ける 

 

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。   

                (コリント人への手紙第2 13章13節)

 

 礼拝プログラムには、祝祷が入っている。この祝祷も、極めて重要なものである。祝祷では、コリント人への手紙第2 13章13節の言葉を用いる。三位の神が、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりとあるが、本来は、父、子、聖霊であるはずである。なぜ、パウロは、「主イエス・キリストの恵み」を先に記したのだろう。

 

 その鍵は、コリント人への手紙第一15章10節にあるのではないだろうか。「神の恵みによって、私は今の私になりました。 」と、自らのことを記している。恵みなくして、何も語れなかったのである。13節には、「あなたがたすべてとともにありますように。」と、続く。主が、いつもともにいてくださることが、慰めであり、励ましである。困難を乗り越える力にもなる。

 

 祝祷を受けることなく、礼拝は語れない。新型コロナによる緊急自粛宣言がしばらく続く。Zoom中心の礼拝ではあっても、祝祷の意味、意義をしっかり心に留めて礼拝にのぞもうではないか。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.8.29


空しさからの解放

 

 口語訳聖書では、「伝道の書」だったものが、新改訳2017では「伝道者の書」となった。ソロモン王によって記された同書は、「空しさ」を教えていると言ってもよいだろう。1章8節には、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」 最終章 12章8節は、「空の空。伝道者は言う。すべては空。」 としるしている。2章1節から11章10節にかけて、16回も「空しい」がでてきている。

 

 

 ソロモンは、この地上にあって、当時として手中に得られるありとあらゆるものを手に収めた。しかし、彼の心は虚ろであった。2章1節には、「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんと空しいことか。」

 

 今風に言えば、世界的富裕層。神の人ソロモンは、この世に満足を得るのに、見事に失敗している。ソロモンは、最後に何と言っているのだろう。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 」(12:13) 空しさからの解放を、神と共に歩む以外にはない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.8.22

じっくり考える

 

 忙しければ忙しいほど、祈りと考える時間を持ちたいものである。即断しなければならないときはある。それでも、一度座りなおして見なくてはならないのではないかと思っている。8月に入り、新型コロナ変異株の急拡大、各地の豪雨災害などで私たちは、思い通りに事が進まない中に置かれている。

 

 明日は聖日。ヨハネの手紙3章1節を中心に開こうと思う。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」(1) 神の子とされた私たちが、すばらしい愛が与えられている。その恵みの大きさを考える時間を取るようにと願わされている。

 

 じっくり考える時間を取る。今、置かれている状況は非常事態だといってもよい。落ち着け。今の時を考えよ。神の愛の大きさが語られる。落ち着け、座りなおせ。じっくり味わい、考えてみよ。考えることをやめてはならない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.8.15

新型コロナ第5波

 

 変異型コロナの感染力は、従来型と比べて強力であると言われている。ついに、8月15日から、Zoomを中心にした礼拝へと切り替えていくことになった。信徒のみなさんから異口同音言われることは、「自宅でメッセージを受けることと、教会で受けることとではぜんぜん違う」と言われる。

 

 牧師として、礼拝をZoom礼拝に切り替えるとは、本当は言いたくない。大変に抵抗感がある。教会も社会の一員であるのは間違いない。どこからかの圧力で礼拝自粛を言われたくはない。苦渋の選択でも、あえて教会が自主的に決めて下さなくてはならないということである。

 

 新型コロナ第5波は、今まで以上の大波である。合わせて、豪雨災害が各地ででてきている。信仰の奥底まで振るわれている思いがする。こんな時こそ、みことばも、信仰も、御霊も必要である。大波でも、乗り越えていかなくてはならない。




2021.8.8

らくだにも水を

 猛烈な暑さの中にあって、すべての生き物が水をほしがる。水の恩恵なくしては、生きてはいけないのである。アブラハムの命を受けてイサクの花嫁を求めて旅に出たしもべと、一人の女性と出会うことになった。その女性は、リベカであった。この女性こそがイサクの嫁にふさわしいと思ったのは何だったかということである。

 「この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。」(創世記24:16) それは、第一の条件だっただろう。決めては他にあった。「あなたのらくだにも、飲み終わるまで、水を汲みましょう」(19)であった。ラクダは何頭いたのかはわからない。1頭あたり80リットルは必要となると、女性にとっては大変な仕事量である。苦もなくそれをやりとげたのである。普段からの気立てのよさを感じ取ったのだろう。

 人は、何を見ているのかはわからない。普段のさりげない行動が見られているのである。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.7.8.1

コロナ禍、それでも礼拝を続ける意義

 

  

 礼拝を休まないで継続する。そんなことは、当たり前のことだと思っていた。度重なる新型コロナ緊急自粛宣言がなされる中で、礼拝が続けられるのは恵みだと受け止められるようになりました。幸いにも、オンラインで礼拝ができる環境が整っています。もし、それもできなければ礼拝が本当に開かれないことになっていたかもしれない。

 

 高和教会と押部谷教会役員会は、コロナ禍であってもどのような形であれ、これからも礼拝を継続していきたいと願っている。ヘブル人への手紙の記者はこのように記している。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。 」 (ヘブル人への手紙10章25節)

  

  新型コロナ感染拡大は、教会にとっても試練である。教会は、信徒を励まして礼拝を継続する重荷がある。そのためには、あらゆる手立てを打って信徒のみなさんの不安を取り除かなくてはならない。それは、礼拝はそれまでしてでも開く意味があるからである。今しばらく、見えざる敵との戦いは続きそうである。負けるわけにはいかない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.7.25

平和と聖さを求める

 

 23日にオリンピックの開会式が行われた。説教準備中のためにゆっくり見る時間はなかった。緊急事態宣言下での平和の祭典である。閉幕まで、楽しんでテレビ観戦できればと思う。聖書には、次のような言葉がある。「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」 (ヘブル12:14)  

 

 私たち、みことばに生きる者として、ヘブル12:14では、2つの大切な教えが記されている。一つは、「平和を追い求め」ることである。私たちは、平和主義者でありたいと願う。もう一つ、「聖さを追い求め」ることである。平和と聖さこそ、クリスチャンのしるしと言ってもよい。

 

 私個人は、十字架がついたものを身に着けたりはしない。そのようなものを付けていても、クリスチャンかどうかはわからない。平和と聖さに生きておれば、クリスチャンとして世は受け止めてくるだろう。

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.7.18

2つの聖書の読み比べ

 

 新改訳聖書2017で聖書を読むようになって、日本語に訳された言葉に新鮮さを覚えることがある。たとえば、「吟味」と訳されている言葉もその一つである。新改訳第3版では、3箇所だったものが、8箇所になった。  

 

 エペソ5:10を見てみよう。第3版では、「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」が、2017では「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」と訳している。日本語で説教している牧師にとっては、日本語の響きを大切にしたいと願っている。「吟味」は、興味深い訳語と思っている。

 

 「見分ける」は、区別するの意味である。「吟味する」は、念入りに調べて選ぶことの意味である。読み比べてみると、新たな発見が次々とある。個人的には、新しく翻訳された聖書を教会ぐるみで変えてよかったと思っている。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.7.11

牧師声のたよりを振り返る

 

 昨年から、緊急事態宣言などで礼拝堂に集まって礼拝や祈祷会ができなくなると、夜に『牧師声のたより』を、LINEの仕組みを利用して、4分程度にまとめてお送りさせていただいた。今は、会堂に集まれるようになって、不定期とさせていただいた。現実には、日常に追い回されて、このところマイクを握らなくなってしまった。

 

 いまや、簡単に声や映像を届けられる時代になった。便利にはなったが、自分から進んで聞く、見るをしない限りは、届けられない。今から60年も前に、ゲルマニュームラジオを組み立てた。ハンダゴテを握り、数点の部品を繋げば完成である。感度はよくないが、工夫を凝らして聞けるようにしていた。聞こえるだけで、嬉しかった。

 

 今、どれだけ渇いて、求めて聞こうとしてくださっているのだろうか。語り手の努力だけではどうにもならない部分もある。聖霊のお働きに期待したい。




2021.7.4

力いっぱいの献げもの

            

  ソロモン神殿は、ダビデの入念な準備があって建てることができました。歴代誌Ⅰ29章では、ダビデが献金アピールしています。まずアピールする自らが、持てるものを大胆に献げると公言しました。そして、「今日、自ら進んで、その手にあふれるほど主に献げる物はいないか。」(5) ダビデの献金アピールに、次々と献げる人が起こされました。

 

 献げるのは、すばらしいのですが注意すべき点があります。下心があってはなりません。「彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げた」(9)と、あります。ダビデはこうもいいます。「自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。」(14)と。

 

 献金についても、学ばなくてはなりません。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.6.27

人生の実力

 

 生きる力を養っているだろうかと、自ら問うことある。次々と課題が押し寄せてきて、今までの経験だけでは対処できないことがある。

 

 柏木哲夫先生は、人生の実力とは何かを、「心をいやす55のメッセージ」(いのちのことば社刊)の中で述べている。「難しい課題を解決する力」というような意味がある。解決力ともう一つ、「どのような状況に置かれてもそれを幸せと思える力」も人生の実力の一つだという。そのとおりだと思う。

 

伝道者の書3章13節には、「すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」とある。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)

2021.6.20

人生の目的

 人生の目的について考えてみたことがあるだろうか。個人的には、大っぴらに聞く機会はない。いい返事が返ってくるようには思えないからである。この問いは、今に始まったものではない。五木寛之は、「人生の目的」について著している。枯れ葉、人生には目的などないとの結論だった。

 

 おそらく、どんなに考えてみたところで答えは見つからないのではないか。

理由としては、わたしたちが誤った出発点、すなわち「自分」から出発してしまうことによる。自分の内側をいくら見つめてみたところで人生の目的を発見することはできない。

 

 では、どうしたら人生の目的は見出だせるのか。
「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです…
」(コロサイ人への手紙 1:16 )

 

 答えは、神のことばである聖書の中に述べられている。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.6.13

祝された教会の秘訣

 

   3月に教会役員改選が行われた。任期により一部の役員が入れ替わった。新型コロナ禍、緊急事態宣言が出て、引き継ぎができないでいたが、やっと、6月12日に新旧の役員会を実施することができた。

   

   祈って準備したみ言葉が、ピリピ1章1節である。「キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」である。パウロがピリピ教会に宛てた手紙の書き出しである。ここに、すべての聖徒たち、監督、執事とある。初代教会当時から、すでに教会には組織があったのがわかる。今の私たちの群れであれば、監督は、牧師。執事は教会役員ということになる。

   

   祝された教会というのは、建物が立派かどうかということではなく、聖徒たち、牧師、役員が一つ心になっているかどうかにかかっているのではなかろうか。それが、秘訣のすべてと言ってもいいと思っている。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.6.6

謙遜であるということ

 

 ダビデ王は、完全な人物とは言いがたい。ある時は、預言者ナタンから罪を強く指摘されることになった。ダビデは悔い改めた。神は、ダビデを信仰者として受け入れておられた。

 

 彼は、自分の代として、神殿建設を心から願っていた。今までは、エルサレムに都を定めて神殿を建立したかったのである。しかし、主はそれを良しとはされなかった。

 

 歴代誌第一17章16節には、このように記されている。

 「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。」 

 

 どこまでも、ダビデは主にへりくだっているのがわかる。自分の思い通りにはならなくても、それが主のみこころと信じて従っていく、その姿勢には教えられる。私たちは祈っていても、そのとおりに道が開かれないときがある。その時、私たちは主にどのような思いを持つことになるのだろうか。どこまでも謙遜でありたいものである。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




2021.5.30

神のみこころ

 

 ユダを助ける道があるのだろうか。主は一つの道を示された。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(15)  

 

 この話しのバックバランドは、BC701 年のセナケリブによるエルサレムの包囲とされる。 神は、ユダに、軍を求めてエジプトや他の国民たちのほうを向いても、彼らは助けることはできない。と警告した。

 

 ユダを助ける道がある。主を信頼することである。信頼とは信じるということです。主のみことばに100パーセント信頼しなくてはならない。2 つのポイントに区切ってみよう。1 つは、 立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われる。2 つは、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。というものである。

 

 ユダは、どうしたのだろう。「しかし、あなたがたはこれを望まなかった。」と記している。完全に選択をあやまったのである。主に生きるものとして、2つのポイントは、いついかなる場合も役立つはずである。一度自分が決めた計画や考えというものは、なかなか変えられないものである。行き詰まり、どん底に陥ったときに、あの放蕩息子のたとえに見るように、はたして立ち返る思いがでてくるのだろうか。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.5.23

後になって知る

 

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す( 伝道者の書11章1節)

 

 かつて奉仕していた教会で聞いた話しである。話しをしてくれた本人が教会に来るきっかけは、キリスト教のチラシを見たことに始まったそうだ。街をぶらっと歩いていたときに、その案内チラシは、道に落ちていたものを拾った1枚だったのだと言う。「ここに愛がある」と大きく書かれたチラシだった。近くの教会で集まりがあるらしい。行ってみようと思ったそうだ。多分、そのチラシは捨てられていたものだったようである。それが、拾われて読まれて、集会に参加するようになり、救われたというのだから驚きである。

 

 私たちは、機会あるごとにチラシ配布する。配布したところで、パンを水の上に投げるようなイメージをいだくことがある。それでも、継続して実施していると、思わぬところから電話が入る場合がある。集会に来られることがある。やってきたことが無駄でなかった。後になって知ることはいくつもある。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.5.16

混乱状態

      

 新型コロナ、温暖化による自然災害、イスラエルとパレスチナの紛争、米中冷戦、米ロ冷戦などなど、先行きが極めて不透明なってきていて、世界中が混乱に陥っている。

 

 私たちの信じる神について、パウロは次のように記している。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」(Ⅰコリント14:33)と。私たちは、平和を重んじている。平和なこの世の中にあって礼拝したいと願っている。

 

 混乱状態にある今、世界に秩序をもたらしてくれるリーダーを渇望している。世界を統率となると、何とも危険な臭いがしてくる。時代は、危険な方向に進み出しているのかもしれない。あなたは、今、社会が抱えている問題を前にして、何を祈っておられるのだろうか。

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)

 

 

2021.5.9

苦しみを乗り越える

  
 新型コロナの感染拡大が止まらない。医療や経済が混乱している。何とか乗り越えていかなくてはならないが、通常に戻るまでには、かなり先になるように思われる。
 
 新型コロナ一つ取り上げてみても、大なり小なり苦しみを抱えているのではないか。こんなにも、幾度も礼拝堂に集まって礼拝が捧げられないことは、経験がなかった。牧師も苦しいのである。
苦しみがない人にはなれそうもないが、苦しみを乗り越えられる人になりたいと願っている。

 大切なことがある。みことばを内に蓄えよう。いつでも役立つように。今、私には次のようなみことばが与えられている。「苦しむ者が叫ぶと 主は聞かれ そのすべての苦難から救い出してくださる。」(詩篇34:17)

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)

2021.5.2

5月に入って

  
 新緑の季節である。木立ちが緑色に芽吹き、葉を広げている。
水田には、水が入れられ田植えのシーズンが始まる。農作業は、忙しい季節を迎えることとなる。

 教会の庭には、聖書にちなんだ果木が植えられている。オリーブ、アーモンド、イチジクである。今は、アーモンドが実を付けている。昨年よりも個数が多い。
 
 アーモンドが、聖書にでてくるのをご存知であろうか。民数記17:8には、「その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。」新緑に包み込まれた庭を歩きながら、やすらげる自分がいる。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.4.24

医療従事者のために祈ろう

  

 明日の4月25日、兵庫県にも緊急事態宣言が発令される。本日、24日の兵庫県の新型コロナ陽性者数は、635人だとニュースで流れていた。

 

 現実に医療崩壊が起こっているのだ。重症患者なのに入院できない人がでてきている。緊急に手術が必要なので、待たされている人がいる。次々に運び込まれる患者に、手を休めることもできない医療従事者にただただ頭が下がるばかりである。

 

 高和教会にも、押部谷教会にも医療従事者がおられる。日々に緊張が強いられている。精神的、肉体的な疲労は限界にきておられるのではないだろうか。毎日、すべての医療従事者を覚えて祈りたい。



2021.4.18

クリスチャン寿命2.8年

 

 私たち日本人の平均寿命は、84.21歳である。老々介護という言葉が生まれて久しい。91歳の母に電話してみると、67歳の私より声が若々しく感じるほどである。その母は、100歳まで生きるのではと思うほどである。

 

 気にかかるのは、クリスチャンの寿命が短いとの統計がある。平均2.8年というのである。牧師としてどうしたものだろうと頭を抱えてしまいたくなる。教会は、洗礼準備会をしているのだろうか。新生している確認をしてから洗礼を授けているのだろうか。十字架信仰がはっきりしているか。特に牧師の姿勢が問われているように思うのである。

 

 今、教会では4回の準備会をと求めるようにしている。漠然としていたものが、聖書から学べるのは長い信仰生活を支えるうえでは、極めて大切である。準備会は、牧師が担当させていただいているが、教会の働きの一部分である。クリスチャン寿命が極めて短いのを嘆く前に、教会が正されなくてはならない。そのように考えている。



2021.4.11

神に立ち返る機会になるか

 

 現在2年越しの新型コロナ禍に、何となく疲れてしまっている。教会も、自由に集会を開いてというわけにはいかない。不自由な日々に耐えているのが現状てせある。本日、4月10日の大阪や兵庫の感染者数を見て、ため息がでた。

 

 全人類が、見えざる敵であるウイルスと戦っている。ワクチン開発と供給も容易ではない。長期戦になりそうな気配である。

 

 私は、この度の疫病を神の警告ではないかと見ている。ヘブル人への手紙12章25節に、「あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。」とある。

 

 この度の新型コロナウイルスを警告と捉えるなら、立ち戻れる猶予がまだあるというわけである。警告ランプが灯っている間が、「悔い改め」のチャンスである。全人類に残された最後のチャンスかもしれない。


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.4.4

主イエスの復活…みことば信仰

      

ルカの福音書24章1‐12節

     

    主がよみがえられた早朝に、墓に向かったのは女性たちであった。ルカの福音書24章10節には、名が記されている。最初にマグダラのマリアの名がでてくる。主イエスに多くの女性が仕えているのがわかる。

    

    1‐12節を読みながら思うのは、墓に向かった女性たちの信仰である。墓に行ってみると、中は空っぽであった。そこに御使いが現れて、主イエスのよみがえりを告げた。最初は、墓が空っぽなのに心が捕らわれてしまっていて、御使いの話しが、わからなかったようである。

    

  御使いは、「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。」 (6) と、話した。その主の話しとは、「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(7)と、いうものであった。

  

  女性たちは、その一言葉で復活を信じたのである。6‐7節から、みことばの信仰の大切さを受け止めることができる。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネの福音書 20:27)  


(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


 

2021.3.28


再臨待望

 

 

「人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。」 

(ルカの福音書21:26) 

 

 今年の1月、元旦礼拝から新改訳2017聖書を用いるようになった。2017では、「予測」とあるものが、以前の新改訳聖書では「予想」となっていた。「予測」は客観的な根拠に基づいて未来を推し量ることで、「予想」は主観的な考えに基づいて未来を想像することである。今は、AIで未来予測をするようになってきている。しかしながら。予測不能なことは、起こってくる。

 

 主の再臨前の出来事が、ルカの福音書21:26の中に記されている。読むに恐ろしい光景である。私たちクリスチャンは、再臨の主を心から待ち望んでいる。「気を失う」どころか、喜びと希望溢れる日である。「そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」 (同27節)

 

 新約聖書の最後には、何が書かれているのだろう。見てみよう。「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。 」(黙示録22:20)
再臨を心から待望しているのがわかる。花婿を待ち望む花嫁のように、その日を待ち望んでいるのがわかる。



(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)


2021.3.21

洗礼準備会

    

 洗礼希望をお伝えいただくと、洗礼準備会を行うことにしている。高齢のクリスチャンに聞いてみると、「そんなことをしてもらわなかった」との返答が返ってくることが多い。

 

 洗礼準備会は、牧師が担当している。言わば、教会の責任である。救いが何かよくわからない。洗礼の意味もわからない。信仰告白もわからない。救いの確信があるのかもわからない。わからないずくめで洗礼を受けたのでは、長い信仰生活を果たして乗り越えることができるのだろうか。受ける側も、洗礼を授ける側も心配事が残ることとなる。

 

 現在、毎週金曜日の午後に準備会をしている。その人に合うようにプリントを整えて1時間ほどの集まりをしている。後1回を残すところまできている。救いの証しの作文を読ませていただいて、喜んでいる。救いの確信をちゃんと握っておられるのがわかったからである。




2021.3.14

エルサレム会議

 
 3月。新型コロナによる緊急自粛で、1ヶ月遅れの総会が開かれる。特に、この年の総会は大きな案件が役員会から出されている。祈りと信仰をもって、入念に準備してきた案件である。
 
 使徒の働き15章には、エルサレム会議が開催された。その会議のテーマは、イエス・キリストの救いを受けるにあたって、割礼が必要なのかどうかというものであった。教会が始まった当時は、ユダヤ人中心の教会だった。働きは、小アジアからヨーロッパへと拡大していった。異邦人が救いに導かれるようになってきた。異邦人も、割礼を施すことまで主張するものがいた。
 
 会議の中では、さまざまな意見がでてきた。結論として、イエス・キリストの救いには割礼は要しないと決議した。これは、聖書に見る会議の一コマである。さて、私たちはどのような思いで、総会に臨むことになるのだろうか。


2021.3.7

東日本大震災を思う

 

 2011年3月11日の東日本大震災から10年になる。震災があった5月に、私は有志たちと長野県から被災地・福島県原町市の総合体育館へちらし寿司を作って届けた。阪神淡路大震災のときも、愛知県から神戸市を訪ねた。どこから手を付けたらいいのかと、ただただ天を見上げるしかなかったのを覚えている。

 

 「災害は、忘れたころにやってくる」と言われる。日ごろから聖書のお言葉に触れているので、自然災害、新型コロナ、社会状況をも勘案してみて、世の終わりが近いのかと思ってしまう。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」(マタイの福音書 24:7)

 

 私たちは、静かで平和な日々を取戻したいと願っている。10年経た東北の人々の日々が映像に写しだされている。まだまだ、日常に戻るのには時間を要するのがわかる。祈りの手を下ろすわけにはいかない。

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.2.21

今持ってるもので

 コロナ禍。仕事を失って生活に困窮している人がでてきている。私の恩師が、牧師の駆け出しだった頃、「生活にいきずまったので…」と、悩みの相談に来た人がいた。話しを聞いて見たところ、自分の方がずっと少ない収入で生活していたと、話していたのを思い出す。

 昔と今とでは、生活レベルは違っている。同じモノサシで見るわけにはいかないだろう。まずは、聖書はどう言っているのだろう。「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身がわたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。 」 (ヘブル人への手紙13章5節)
 主なる神は、なんと憐み深いお方なのだろう。慎ましい暮らしであるかもしれないが、日々の暮らしの中で生ける神を見ることができる日々は、平和そのものである。

 コロナ不況のはずなのに、日銀は、どんどん金融緩和してお金がじゃぶじゃぶ状態なのだそうだ。そのお金は、株式にいっている。株価だけは、上がっている。マネー・ゲームである。いずれは、バブルははじけるだろう。バブルがはじけたとき、世界は大不況になる。みんなが困窮する。ヘブル人への手紙
135節のみことばを、今一度かみしめたいと思っている。

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)




2021.2.21

栄光の教会

 明日の礼拝では、教会について説教する。エペソ人への手紙5章22-27節を読みながら、主が教会をどのように受け止められ、どのようにしたいのかが教えられるのである。23節。「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、……。」とある。キリストが教会を贖われるのがわかる。「ご自分がそのからだの救い主」を読めば、そのことがわかる。


 教会を贖ってどうするのだろう。教会に対しては、主に従うことが求められる。(24)   主は、教会を心から愛される。(25)   それから、どうされるのだろう。26節には、こうある。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、…」と。みことばによりきよめなければならない。なぜ、きよめる必要があるのだろうか。27節「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」と。

 「ご自分の前に立たせるため」が、ゴールである。私たちは、教会に何を求めているのだろう。楽しい教会、賛美あふれる教会、祈る教会などなどあるだろう。まずは、座りなおして、エペソ人への手紙5章22-27節を味わい。そこから、教会について黙想していただきたいと願っている。

(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)



2021.2.14

砕かれた人、へりくだった人

 

 私たちは、神さまに喜ばれる者になりたいと願っている。イザヤ書57章15節では、神さまが、いっしょに住みたいと願っている人のことが記されているのがわかる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」とある。

 

 「砕かれた人、へりくだった人」は、神さまが好んで用いられる人でもある。同じ聖句を続けて見てみると、「へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。 」とある。「生かす」は、「用いる」の意味がある。ただ、神さまはその人に期待するだけではなく、その人の中に御霊を与えて、お用いなられる。砕かれ、へりくだればくだるほど、神さまがお用いやすくなる。

 

 「あなたは砕かれていますか?」と聞かれたらどう答えるだろうか。おそらく、「わたしは砕かれています」とは、答えられないであろう。だれも、神さまの前でそのように言える人は、一人もいない。私たちは、日々に自らを砕かれつづけていかなくてはならない。

 

 砕かれた人とはだれだろう。イザヤ書53章5節にこのように記している。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 」それは、十字架にお架かりになられたイエスさまである。

(聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)



2021.2.7

「小さい者たち」

 

 マタイの福音書には、「小さい者たち」が、8回でてくる。特に18章中には3回でてくる。「この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。」(マタイ18章10節聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会) この世は、彼らを軽んじるのだろう。今でこそ聞くことはなくなったが、悪いことを子どもに「この餓鬼(がき)」と言って叱られる場面を見たことがある。餓鬼とは、ガリガリにやせ細り、皮と骨だけの姿をいう。「悪いことをしたら餓鬼道に落ちるぞ」との意味なのだろう。小学生時代は、子どもという存在が餓鬼なのだと受け止めていた。いやな言葉の一つとしての記憶がある。

 

 何と驚くべきことに、この世では軽んじられる小さい者たちの一人ひとりに、守護天使がついているのだといっている。神を信じる私たちは、この小さな一人を見失わないようにしたい。彼らを見失うとは、私たちの存在でさえ見失うことになってしまうのではないだろうか。「天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(同10節  新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)





2021.1.31

新改訳聖書2017を読む

 2021年の元旦礼拝から、新改訳聖書2017 (新日本聖書刊行会)に切り替えた。それまでは、口語訳聖書を用い続けた。今、新鮮な思いで新しく手にした聖書を読み始めている。聖書が変わったことで、説教する私は、一句、一句当たりなおしていくことになる。なぜ、その必要があるのか。それは、日本語の響きを大切にしたいからである。


 ヨハネの福音書3章16節は、よく知られた聖句である。

 口語訳聖書では、
 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

  新改訳聖書2017 (新日本聖書刊行会)では、
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

  比較してみると、新改訳聖書2017の方が言葉の響きが強く感じられる。「実に」と、「一人として」の「として」、「持つ」の3つの言葉を大切にメッセージしたいと思った。特に、「得る」が「持つ」になったことで、今生きている間に、「永遠のいのちを持つ」が強調されているように思われるのである。

 新しい聖書に触れて、新しい発見をしてもらいたいものである。



2021.1.24 

信仰が無くならないように

 

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 (ルカの福音書22章32節  聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)

 

 高和教会と押部谷教会の兼牧がスタートして、もう少しで丸2年になる。2教会は、昨年8月から合同礼拝をスタートした。少しずつではあるが、2教会の歩みの歩調が揃いだしたようにみえる。

 

 1月12日 兵庫県にも新型コロナによる緊急事態宣言がでた。17日の礼拝は、一堂に会して礼拝ができずZoomによる礼拝に頼らなくてはならなくなった。通常であれば礼拝や諸集会の集りで、共に顔を合わせることで交われるし、安否を問うこともできる。残念ながら、思い通りにはならない日々が続くことになりそうだ。黙想していると、ルカ22章32節を思い起していた。

 

 主イエスが、パウロのために祈ったように、私どものためにも祈ってくださっている。立ち直るようにと。祈りはも聞かれる。立ち直れるのだ。群れには、さまざまな課題を抱えた人がおられる。弱める人もおられる。声を聞き、顔を合わせながら、祈り祈られながら主の群れは前進いくものなのだ。コロナ禍。一人として、信仰が無くならないようにと祈っている。





 

2021.1.17 

弱さを誇る 

 

 東京オリンピックの開催が、今年、行われるのだろうか。多くの競技が行われる。個人的には、陸上男子100m走である。記録の壁が破られるのか興味がある。人間は、さまざまな可能性に満ちているが、合わせて、弱さを持ち合わせている。

 

 聖書には、すぐれた神の器が登場する。もし、パウロが登場していなかったら、キリスト教は世界中に信仰者を持つことにならなかったとのではと思う。その彼は、「自分は弱い」と、言っている。しかも、「弱さに徹する」とも言っている。自己過信に陥り、自分には神の助けなど必要ないなどと豪語している人に対しては、神の御手は伸ばされないのを知っていた。

 

 パウロの言葉を見てみよう。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙 第二 12:9 聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。 (ローマ人への手紙 8:26 聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)

 

 主イエスは、私たちにすべての必要を整えて、待っていてくださるのである。何も心配はいらない。大胆に、厚かましくもみえるほど、神の御座に近づこうではないか。



 

2021.1.3 

 

現在のモーセたれ!

 

 もし、教会の掲示板に求人広告を載せるとしたら、「執り成して求ム」と書きたいところだ。幸いにも、高和教会も押部谷教会も祈りの器が揃っているように思う。出エジプト記31-33章を新改訳聖書2017を、ゆっくり味わいながら読んだ。モーセは、エジプトから連れ出しカナンの地にまで民を導き上るのは、いかに苦労が多いかがわかる。モーセがシナイ山に登っていたときに、その山麓でモーセを待ちわびた人々が、モーセは死んだと勘違いして金の子牛の鋳物を作り、それを神々として崇めることをし始めた。


 モーセは、会見の幕屋で主と交わった。それは、日常の出来事でもあったようだ。主は、モーセに対して、主は民たちと一緒にはいかないという。うなじが堅い民であるので、彼らを滅ぼしてはならないからだという。モーセは、主に訴える。「わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。(出33:13) 訴えは聞かれた。「主は言われた『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう』」。 いっしょに行かないと言われていた主が、一緒に行くとモーセに約束された。主は、執り成しの祈りを喜んで聞いてくださる。

 私たちも、現在のモーセのようになれるだろうか。主とさまざまな課題の真ん中に入って、主に執り成しをするのである。新型コロナ禍、私たちは苦しんでいる。嘆いていても主の御手はうごかない。黙々と、主に執り成しの奉仕をしたいものである。





2020.12.27

コロナ禍

 この1年を振り返ってみて、コロナ禍での奉仕は、苦い経験として忘れられないものになるだろう。牧師は、羊飼いの働きにたとえられる。羊は放牧されてはいるが、羊飼いの声が聞こえるところにいなくてはならない。牧師は、託された群れを牧会していくわけである。コロナ禍にあっては、集まりができない一時期があった。礼拝や祈祷会などの基本集会ができず、礼拝はZoomに頼らなくてはならなくなった。それでは牧会にならないと思った。

 「神の声が聞こえるところにいてくださいね」それが、牧者として群れの一人びとりへの願いであった。そこで、牧師声のたよりのメッセージをラインを通じて届けることとした。今はやってはいない。やった反応のほどはどうかは、今もってわからない。しかし、牧者の姿勢だけはわかっていただけたのではないだろうか。

 ごく身近なところで、新型コロナウイルス陽性者のクラスター発生が起こっている。一施設で2〜30名の感染者数となる場合もある。時々の状況は注視しなくてはならないが、礼拝と祈祷会だけは続けたいと願い、祈っている。


2020.12.20

守られているを、あたりまえと考えない

 

 私たちの国は、自然災害が突然のように襲ってくる。2日前、関越道での大雪により、大規模な立ち往生する車の出来事がテレビに写しだされた。私たちの経験値をはるかに越えた降雪量だったそうである。

 

 私が、長野県岡谷で牧会していた当時、役員の一人がこれと同じような出来事に遭遇した。時は、2013年1月14日。携帯で、「礼拝には間に合いそうにありません」との連絡が入った。私は、「あっそうですか。祈っています」と伝えて終わったが、事の重大さは、それからのニュースでわかってきた。その日から3日間、中央自動車道は身動きできない状況となった。

 

 地震、豪雨、大雪、火山、津波、新型コロナなどの疫病など。今日も一日守られているのは普通だと思えない。あたりまえだと考えられない。日々、感謝しているだろうか。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(Ⅰテサロニケ5:18)



2020.12.13

立ち上がる力

 

 

  新型コロナウイルス感染拡大が、留まるところを知らない。人と人が顔を合わせることがなければ、感染は起こらないそうである。では、この世の中の動きを止めればよいというほど簡単ではない。経済を止めれば、収入の道が閉ざされて自殺する人が増えるのだという。私たち、主を信じる者にとっても、不安は変わりない。新型コロナには、クリスマスも正月もないのだから。

 

 私たちは、新型コロナだけでなく、さまざまな問題に遭遇する。時には、立ち上がれなくなることもある。不思議ではあるが、信じる者には、困難な中でも立ち上がれる力が注がれている。何度も、体験させていただいた。

 

 聖書には、「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)という言葉がある。何度も、この言葉を握って立ち上がってきた。信じる者には、「新たなる力」が与えられるのである。



2020.12.6

スピーカー

 

 12月6日は、主の降誕節第2週を迎える。イザヤ40章1-11節から「主の道を備えよ」と題して、話そうと祈り準備している。9節にこのようなお言葉がある。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と。」 「よきおとずれ」は、「よい知らせ」すなわち「福音」である。

 

 今、新型コロナを含めて、心躍るニュースが少ない。心躍るニュースが少なくても、私たちにはいつも「よい知らせ」を聖書のことばからいただいている。幸せ者だと思う。福音を伝える使命にある者として、「強く声をあげよ、声をあげて恐れるな……」とあるように、スピーカーとしての役割りをいただいている自らを思うのである。

 

 ひとくちメモの原稿を書きながら、デスクに置かれた小さなスピーカーで、BGMが鳴っている。購入した当初、良くは鳴ってくれなかった。毎日、少しずつでも鳴らし続けているうちに、音が変わり出した。今は、快い音色に変わってきている。説教者というスピーカーの働きにあずかる僕が、働きが担えますように。明日のために祈りながら、もう一度、説教原稿に手を加えようと思う。会衆のすべてに届きますように。



2020.11.29

若い信仰友だちを得たり

 新型コロナの感染拡大が続く中で、不安に襲われことがある。長らく神の言葉に触れてきた牧師の私にしてそうなのだ。信徒の愛兄姉にとっても、いやすべての人にとっても、同じではないだろうか。不安の中にあっても、明日も礼拝が持てるのは喜びである。聖書の中に次のようなお言葉がある。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 (マタイ18:20)  その集まりとは、教会を意味しているといってもよい。

 私がとても嬉しいと思うのは、青年から「先生のことを祈っていますよ」と言われることである。勿論、すべての信徒のみなさんがお祈りしているのを承知している。なぜ青年の祈りが嬉しいのだろうか。それは、年齢から来るものからかもしれない。だんだんと若い世代から、忘れられる年齢になってきている自らを覚えているからかもしれない。「先生のこと祈っている」と聞くと、若い友人ができた思いになるのは、早とちりなのだろうか。

 教会というところは面白い。年齢を越えて、信仰の友だちが与えられるところだからである。若い世代は、歳が高い者を覚える。歳が高い者は、若い世代を覚える。いい世界ではないか。けっして、早とちりではないと私は受け止めている。


2020.11.22

神の家でほめたたえましょう

「生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。」(詩篇150篇6節 リビングバイブル)賛美は、生きている者の使命なのだと思う。深く言葉を味わい、旋律に合わせて歌う。宗教改革までは、聖歌隊や修道士が歌うものだった。賛美歌が、一般会衆のものにしたのは、マルチン・ルターによった。彼自ら、讃美歌を生み出したのは、よく知られるところである。

 詩篇150篇を前にして思うのは、賛美はもっと自由だった。主の御前にあって、魂の躍動感あるものだった。ラッパも十弦の琴、竪琴、タンジリン、弦楽器、笛、シンバルと、まるでオーケストラを思わされるほどである。

  「神の家でほめたたえましょう」(同1節 リビングバイブル) あなたが、詩篇150篇を読んでみて、どのような賛美のあり方を瞼に浮かべておられるだろう。



2020.11.15

パンの家ベツレヘム

 

 イエスさまがお生まれになったのはベツレヘムである。そのことは、旧約聖書に預言されている。ミカ書5章1節をご覧いただきたい。「ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。」とあるとおりである。さて、「ベツレヘム」は、ヘブル語で「パンの家」という意味である。

 

 ここ最近、減塩のために食パンをパン焼き機で作るようになった。「パンの家ベツレヘム」と、名付けている。お客様は、家内だけである。ネットで調べて見ると、同じ名前のパン屋があるのがわかった。話したいのは、「パンの家」で「命のパン」がお生まれたということである。ヨハネ6:48には、「わたしは命のパンである」とある。50、51節には、「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と、記されている。

 

 今日も、部屋いっぱいに、焼きたてのパンの匂いが広がっている。減塩のためにと言いながら、ついつい食べ過ぎてしまう。パンをいただきながら、主イエスの恵みを思い浮かべる。恵みで、心がいっぱいになる。いつか、「パンの家ベツレヘム」のパンを信徒のみなさんといただきながら、「命のパン」なるお方がいかに恵み深いお方か、分かち合いをしたいものである。


 

2020.11.08

祈ってきたことはなる

 

 私が、高和教会に赴任したのは、2017年4月である。赴任前、長野県岡谷市にある岡谷教会の会堂建築に当たらせていただいた。東日本大震災があり、大工等の人出不足、建築資材の高騰など、建築に向けては大変に難しさがあったが、主のみ助けによってやり遂げることができた。

 

 会堂建設後に教会墓地も完成できた。困難に立ち向かうとき、不思議にどこからか助けがあった。本来は、200万円余りの費用を見なくてはならないと思われた。それが、石材店が先代の牧師に大変にお世話になったと、100万円でいいと格安な値段で仕上げてくれた。この時には、会堂建築の支払いに追われているときだったので、涙が出るほど嬉しかったのである。

 

 5日ほど前に、岡谷教会の信徒から一通の嬉しい手紙をいただいた。それは、岡谷教会前のバス停の名前が、10月から「堀ノ内一丁目」から「岡谷教会前」に変わったのだという。かつて、名前を変えるように陳じようしたことがあった。祈ったことは、多少の時間が経過しても成っていくのである。神の御名を崇めずにはおれない。あきらめるのは、まだ早い。祈り続けようではないか。



2020.10.25


福音の前進

 

 「神と人とに役立つ者になりたい」そんな願いをお持ちではないだろうか。使徒パウロは、福音を宣べ伝えたために獄に入れられた。自由に福音が語れなくなるのだから、福音の後退に思っても不思議でない。「兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」(ピリピ1:12)と言っている。

 

 前進と受け止めた理由ことが2つある。1つは、獄中全体にパウロが福音を伝えたことで獄中生活を余儀なくされているのが、知れ渡ったこと。(ピリピ1:13)  もう1つは、パウロが獄に入れられたことで、主に確信が与えられて、大胆に福音を語る者が多く与えられたことである。

 

 即座に「だめだ。後退だろう」との、結論を出してはならないケースもある。福音の後退ではなく、前進に役立つ。私たちも、今まで歩んできた信仰生活を振り返ってみていただきたい。思いもかけない出来事が、福音の前進に役立ったことがあったに違いない。じっくり祈って、神がなされるところを見ていきたいものである。



2020.10.25

長崎の鐘と永井隆博士

 

 10月19-24日(土) 朝ドラ「エールの中で、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲で、藤山一郎が歌って大ヒットした「長崎の鐘」の誕生秘話が、ドラマ化されていた。このところ、朝ドラは真剣に見ていない。書斎にこもっていることが多い。たまたま、朝ドラを見ていると、「如己堂(にょこどう」で臥せている永井隆博士の場面がでてきていた。彼が、カトリック信者であり、原爆で妻を亡くし、長崎医大で被爆、右側頭動脈切断という傷を受けながらも、被爆者の救護に当たったのは、よく知られている。

 

 名曲「長崎の鐘」の生まれた背景に、存在は知っていたが、古関裕而と永井隆の出会いがあったのは知らなかった。「如己堂」に、古関が永井を訪ねる場面があった、永井の語る言葉に聞き入る古関、苦悶しながら曲作りに臨む姿が、朝ドラの中でえ描き出されていた。朝ドラとしては、大変に重い内容がこめられていると思った。この 如己堂 は、二畳一間の小さな小屋である。「如己(にょこ」は、「己の如く他人を愛せよ」(ルカ10章27節)からきている。

 

  永井博士は、昭和26年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで亡くなった。その墓の石板には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカによる福音書第17章10節)と刻まれている。長崎に行く機会は、これからあるかないかはわからない。一度、「如己堂」 に行ってみたいと思った。

 

 

  永井隆の『長崎の鐘』 吉海直人(日本語日本文学科 特任教授)を、参考にさせていただいた。

  https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/13338



2020.10.18

生きる望み

 

 使徒パウロは、艱難な中を通される経験を何度もしている。Ⅱコリント1:8「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしま」う経験を手紙に書き記した。今、多くの人が、「生きる望み」を失ってしまっているように思える。新型コロナが、人々から多くのものを奪ってしまったからである。人間関係、仕事、収入などである。明日への不安が、社会全体を覆っているように見えるのである。「生きる望みさえ失う」とは、「死を覚悟」するにつながる。そのような人が、世界中に溢れている。あってはならないことであるが、現実はきびしいものがある。

 

 パウロは、「死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」(9)  と、記している。彼は、「死人をよみがえらせて下さる神」に着目しているからである。それは、パウロ自身が宣べ伝えてきたもの、福音、すなわち、「十字架と復活」である。生きる望みをさえ失ってしまった人々に、生きる力が備えられるもの。福音には、人を生かす力がある。あなたは、どこまで主イエス・キリストを信じておられるだろうか。



2020.10.11

鳥取砂丘

 

 休暇をいただいて、鳥取県へ行ってきた。鳥取では、新型コロナの感染者がこのところ出ていない。旅先に選んだ理由の一つである。久しぶりに訪ねたかったのは、鳥取砂丘である。砂丘は比較的、人がよく来ていた。他に行った観光地は閑散としていたのに、砂丘は別格である。

 

 車を有料駐車場において、後はひたすら砂丘を目指すことになる。海抜60メートルの砂山、他2つの砂山が続く。海から吹きつける風は、足元の砂を動かしているのがわかる。就学旅行に何組かの学生たちが何十人も固まって、砂山の頂上を目指していても足跡一つ残していない。さらさらした砂と風の力で足跡を消してしまうからである。私たち夫婦も、息を切らせながら、何度も立ち止まり、息を整えてついには、登り切った。

 

 自分の登った後を振り向いても、足跡は残っていない。しかし、風の吹き方一つで、風紋ができることがあるそうだ。ネット上の写真が証拠である。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。ヨハネによる福音書3章8節を思い起こしていた。風と砂は、風紋という作品を作る。だが、次の日には、風紋はなくなってしまう。何とも不思議な世界である。人が救われるのは、聖霊の働きによる。大自然に抱かれながら、物思いにふけてみるのも楽しいと思った。


2020.10.04

修練すればモノになる

 

 2年前だったと記憶している。月刊ベラカ編集部の面々が高和教会の私たち夫婦を訪問してくださった。当時は、face bookに教会や地域のことを頻繁にアップしていた。それに興味を覚えたのか、記事にしたいという理由での来訪であった。何ヵ月かの後、記事にまとめられていた。

 

 取材時に、「オカリナを始めて20年になります。趣味で始めたものが、今、教会の働きの一部になっている」と、話した。聞いていた編集部の女性のメンバーは、文書を書くのが好きで、教室に通っていたことがある。それが、月刊ベラカなどの校正に役立っている」と言う。何が幸いするかはわからない。思ったのは、オカリナでもモノ書きも修練すれば、役立つようになるかもしれないということである。

 

 医者ルカは、ルカによる福音書と使徒行伝を記している。彼は、出来事を時系列に書いているので、出来事の流れがわかりやすい。もともと文が書ける人だったのだろうか。いつも、感謝しながら読ませていただいている。



2020.9.27

畑を見なさい

 米の収穫の季節である。このところ自然災害があちらこちらで起こっている。猛暑でもあった。人間だけでなく、作物たちもきびしい季節を乗り越えての収穫である。押部谷教会では、サツマイモのイモ掘りを実施する。どれほどの収穫かは、掘ってみてのお楽しみとなる。

 ヨハネ4章35節をご覧いただきたい。「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」 麦に穂がでていないのに、「はや色づいて刈入れを待っている」とは、面白い話しの中身だと思う。勿論これは、麦が植わる畑の話しではない。だとすると、何が言いたいのだろうか。

 人の心を、畑にたとえているのである。この世にある人々が、主の話しを聞こうとしている様子を述べている。主は、人の心の様をご覧になられて、その今の様子を麦が熟したことにたとえて言われたわけである。私たちは、今の時を何とみているのだろう。

2020.9.20

メメント・モリ

 

 押部谷教会では、今年の6月、8月と3人の男性を天にお送りした。天国は賑やかになっただろう。牧師の私は、40年の牧会生活の中で多くの方々を天にお送りした。キリスト教の施設で、亡くなった方の式も多く経験している。

 

 メメント・モリ(mement mori)との言葉をご存じだろうか。ラテン語である。「死を覚えよ、死を忘れるな!」の意味である。ネットで調べて見たところ、「この世の人生には必ず『死』がある。『死』のことから目を背けずに、誰にでも訪れる最期の時を意識して、それに備えしていく」大切さが、記されていた。

 

 2010年、2012年 流行語大賞にノミネートされた「終活」は、今や一般的に用いられるようになりました。教会では、「終活」という言葉は用いなくても、日ごろから「死後の希望」が話されている。

 

 メメント・モリを思い浮かべるとき、一つの聖書の言葉が思い起されてくる。ヨシュヤ記1章9節である。

「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。 


2020.9.13

お気を付けてください

 聖書には、中風(ちゅうぶ)という病がでてくる。旧約聖書にはでてこないが、福音書と、使徒行伝に合わせて13回でてきている。使徒行伝9:33には、「そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった。」 難病であるのがわかる。だが、中風について、よくわかっていなかったので、調べてみた。

 中風は、現在では脳血管障害(脳卒中)の後遺症による半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れ、麻痺などを指すとあった。牧師夫人の兄も昨年、脳梗塞になり、帰らぬ人となった。ガンとともに注意したい疾患である。突然、襲われることがある。

 私たちは、長く生きるようになった。私も、67歳。あわれみで、現役で奉仕させていただいている。動脈硬化だと医者から言われている。それだけに、注意しなくてはならない。血栓を溶かすナットウ(納豆)からとったナットウキナーゼを毎日いただくようにしている。注意しながら、主に委ねて歩みたいと願っている。



2020.9.6

主の祈りが変わるかも

 

 主の祈りが変わるかもしれません。いったい何のことと思われても不思議ではない。来春からは、新改訳2017を用いるようになる。ルカ福音書11章を、従来の口語訳とで見比べていただきたい。主の祈りの次の部分が変わっているのである。

 

口語訳聖書
わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。  

新漢訳2017
私たちの罪をお赦
(ゆる)しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦(ゆる)します。

 

 口語訳聖書では、「ゆるしますから」の「から」が、条件付きというわけである。新改訳2017は、「私たちの罪をお赦(ゆる)しください。」と、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦(ゆる)します。」を、切り離している。意味が違ってくるのである。日ごろ唱えている、主の祈りはかわるのだろうか。


 

2020.8.30

収穫の秋

 

 先週、地域の方から梨をいただいた。いただいたものは、市場には出せないキズものである。果肉は、雑味もなく甘みののったものだった。残暑は、きびしく秋を感じ取るのは、もうしばらく日にちがかかりそうである。

  柿もほのかに色づいてきている。栗も実が入ってきた。稲穂も垂れてきている。生産者は、収穫が待ち遠しいのではないだろうか。このような聖句がある。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。( ルカによる福音書102)

 収穫は、総出で当たる。猫の手も借りたいほどだという。神の畑はいかがなものだろう。秋は、教会にとっても大事な季節である。特に、10月には特別集会を行って、身近な人や近隣の人に声をかける。今年は、新型コロナによる3密回避が求められるため開催できない。残念である。今できることを、確実に行っていきたいものだ。


2020.8.23

ラクダにも水を

 猛暑が続いている。危険な暑さという言葉を耳にするようになった。中学生時代に熱中症を経験しているので、この暑い季節の礼拝を、気持ちよく守りたいものだと願っている。聖日に来会される方々のことが気になるのである。エントランスに冷茶スペースを設けることにした次第である。

 創世記24章には、リベカのことがでてくる。アブラハムの僕をイサクの嫁を求めて旅に出したできごとがでてくる。従者は、リベカと出会う。「泉に降りて、水がめを満たし、上がってきた時」(16)だった。水くみは、重労働であっただろう。

 このリベカに、 「あなたの水がめの水を少し飲ませてください」(17)と、僕は願いでた。そうしたところ、「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」。(19)と、かってでた。ラクダは、一頭当たり80リットルも水を飲むという。数頭いれば、大変な労働となる。リベカは、非常に美しいだけではない。気立てもよかったのである。人は、何をもって相手を評価しているのかはわからない。私たちも、神に人にどう見られているのだろう。


2020.8.16


新改訳2017が効用聖書に

 高和教会と押部谷教会は、2021年度から新改訳2017を用いることに決めた。教団の公用聖書に合わせた。牧師個人としては、高校時代から新改訳聖書を用いていた。神戸大石教会での13年間は、新改訳を教会で用いてきた。 

 新改訳2017というだけあって、長らく多くの福音派を中心に用いてきた新改訳聖書 第3版に大きく手を加えた聖書ということになる。変更箇所が3万箇所に及ぶという。大改訂版ということになる。

 今後も、継続して改訂されていくのだという。以前の訳と読み比べて見ると、格段によいものになっている。長らく、口語訳聖書を愛用された方々には、多少の抵抗があるかもしれない。時代と共に、聖書研究が進んでいるし、日本語も変化しいる。「バアルの宮をこわして、かわやとしたが今日まで残っている」 列王記下10章 27節で上げて見た。若い子たちには、「かわや」はわからないだろう。他の訳語を準備する必要があるのがわかる。

 新しい翻訳聖書を楽しんで手に取っていただきたいと願っている。



2020.8.09

新しい歌を

 

 聖書で新しい歌と言っているのは、流行歌のようなものではない。詩篇33章3節には、「新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。」とあるように、「主にむかって歌い」とあるから、これは賛美歌である。

 

 私どもの教会では、現在は新聖歌を主に用いている。ワーシップ・ソングも歌っている。新しい賛美歌が生み出されるのも歓迎である。新型コロナ・ウイルスの感染拡大をできるだけ避けるために、礼拝の中では、2曲を歌うだけである。4曲は歌いたいし、内1曲は、新しい賛美をも歌いたいと思っている。ネット礼拝も併用しているので、今は2曲程度しか歌えていない。

 

 新聖歌を開いてみても、500年前のルターの作った讃美歌もある。讃美歌245番「おもいいずるも」は、越天楽(えてんらく)を元にした讃美歌がある。若い世代を中心に、新しい賛美が生み出されている。讃美歌の中にでてくる曲を調べていくと面白い発見がある。新しい賛美歌は、大歓迎であるが、神への賛歌なのだから、歌詞がしっかりしたものであってほしいと願っている。 



2020.8.02

2教会 礼拝の合同

 昨年から検討してきました高和教会と押部谷教会が8月2日から、礼拝と教会学校を合同して実施することになった。同じ押部谷町にあること。しかも、車で7分で移動できることなど、その他の課題、これからの10年を見通してみると、最善の導きと受け止めた。

 本来は、今年の4月から実施する予定であったが、新型コロナによる緊急自粛要請に基づいて実施を先延ばししていた。現時点においても新型コロナの感染拡大は留まるところを知らない。感染予防に細心の注意を払うのは当然である。

 合同をしてところで、今は特別に何かができるわけではない。共に礼拝が献げられるだけで感謝したい。自粛制限が長く続いた4月から5月。私たちは、集まるのが当たり前だと思っていたが、そうではないのに気が付いた。私たちの意識は、少しずつ変わってきている。そう信じたい。これからの2教会の歩みの上に神の祝福があるように、願うばかりである。



2020.7.26

充電を要す

 スマホは、充電を要する。充電中にも使うことはできる。普通は、充電器にさしこんで完了するまでそのままにしておくだろう。私たちもまた、充電が必要である。精神的、肉体的、霊的にもそのことがあてはまる。

 

 聖書には、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 (詩篇46:10) 神の前に静まる。それは、神と交わるためである。このための特別な時間を設けなくてはならない。「忙しい。忙しい」と、口にしている私たちであるが、「神と交わる」は、神が人を創造するに当って定められた、神の創造目的である。

 

 牧師は、学びにも時間をかける。よい説教を心がけるためである。学びも、大切な充電である。年齢とともに、休めるときは休みたい。「休むも仕事のうち」は、言い得て余りある。みなさんは、精神的、肉体的、霊的、神との交わりの時間を意識しておられるだろうか。

 

2020.7.18

中心聖句

 

 旧約、新約は、合わせて66巻ある。その1巻を取り上げて読もうとするときに、中心聖句はどこにあるのだろうかt気にかかる。注解書などの解説書には、その箇所が記されている。たとえば、ローマ書の場合であれば、私は長らく1章16-17節にあると思っていた。この2節中には、福音の要約があるからである。

 

 いつも机の上においているバイブル・ナビは、違った箇所を記していた。5章1節である。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」これまた、納得である。

 

 聖書は、人が一生をかけても汲みつくせない恵みの宝庫である。聖書の学びは、人の心を豊かにする。あなた独自の各巻の中心聖句を発掘してみようではないか。


2020.7.12

さまざまな救援

 この度の豪雨は、熊本、福岡県などに甚大に被害を与えた。11日時点で、大雨はまだ続くようである。被害が最小限で収まるように祈ろうではないか。2016年4月、熊本での地震を思い起こしていた。キリスト教会は、さまざまな救援のために立ち上がった。

 救援の一つに、礼拝説教奉仕というのもあった。被災教会の牧師先生方が、被災された信徒ケアや片付けなどのために聖日に備えられない状況が生じた。今でこそ、ネット配信によって礼拝を実施することも可能にはなった。被災地からのさまざまなレポートに目を通しながら、義援金を送るだけではことが済まない問題があるのがわかった。

 初代教会は、キリスト教弾圧で苦しむエルサレム教会の支援のために献金を集めている。それをパウロに託した。Ⅰコリント16章をご覧いただきたい。ずっと昔から、教会には助け合う麗しい愛の姿が、聖書の記事として残されている。





2020.7.5

若い神の器

 

 神が年若いエレミヤを預言者に立てた。彼は年若かったので、自信がなかった。神は、彼を通して語ったことは、速やかに成就すると言われた。 そこで神は、 「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。(エレミヤ1:11) とある。 「あめんどう」とは、アーモンドである。

 

 アーモンドは、ヘブル語では「シャーケード」である。イスラエルでは、春に最初につぼみを付ける。これは、「目覚めている」の意味である。冬は、自然界が眠りの中にあったように見える。春は、自然界の目覚の季節である。その最初につぼみを付けるのが、アーモンドであった。

 

 ここで、語呂合わせがでてきている。「ショーケード」である。「見張っている」の意味である。アーモンドが春の季節の到来をいち早く告げるように、神が語られる言葉もその速やかな成就を示している。

 

 押部谷教会の花壇には、アーモンドが一本植わっている。一つだけ実を付けている。日本に、エレミヤのようにテモテのように若い献身者がでてくるように、祈っていきたい。





2020.6.28

突然の危機にも信仰

 

 日本は、自然災害が多い国である。梅雨時の集中豪雨による土砂崩れ、台風、地震、火山、温暖化によると見られる高温などである。主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが、とうごまは、一夜に生じて一夜に滅びたと記してあった。(ヨナ書4章) 猛暑になると、ヨナを思い起こすのは私だけであろうか。

 

 突然の危機の中で、最大の力となるのが信仰である。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」(箴言3章5節)時々、神さまを信じていたのに、自分の思ったのと違う方向にいってしまうことがある。状況がどうであれ、信じることをやめてはならない。うまくいかないと、「自分の知識に」頼みがちになる。

 

 

 信仰とは、神との信頼関係である。信頼をもとにして、危機に立ち向かっていきたいのである。私たちの信仰は、いついかなるときにも問われているのである。私たちは、強くはない。群れがあるというのは、なんと幸いなことであろうか。




2020.6.21

「人生、手放すべきもの」

 年とともに増えるのは3S、「シミ、シワ、シラガ」である。年とともに手放すものもある。若さもその一つである。最近は、豊かな人生を生きる上で、手放すことも大切と思うようになった。

 年齢のことばかりではなく、人生のすべてにおいて言えるのは、何かにしがみついている限り、前に進むことなどできない。しがみついているものの周りを、ぐるぐる回っているに過ぎない。

 イエス・キリストは十字架上で、私たちに代わって「神に捨てられる」をお受けになられた。もちろん、主イエスご自身から御父との関係を手放されたわけではない。その結果として、私たちは見い出されたのである。

 私たちは、前に進んでいかなくてはならない。しがみついているものを手放してみる必要があるのではなかろうか。

 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」10月19日 片柳弘史著 を参考にしました。


 

2020.6.14

砕けた魂

詩篇51篇17節

 主なる神は、どのような魂を求めておられるのだろう。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です」とある。私たちは、さまざまな信仰者として、教会生活を送っている。「砕けた魂」を、何より最重要と受け止めたいものである。

 「砕く」と聞いて、採石場のことが浮かんだ。天然の岩石や道路用骨材やコンクリート用骨材を、建築用資材として適する粒度に加工している。見学してみて、砕かなければ、用いられないのがわかった。

 力で困難を乗り切るという生き方がある。どんなに力を注いでも何ともならないことケースもある。力を振るうほど、問題がややこしくなる場合もある。砕かれて、ゼロにされて、初めて開かれてゆく道がある。「神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。」と、心に刻んでおこうではないか。
参考:今日を生きる言葉 聖句断想366日 小島誠志 7月30日「砕かれる」の項



2020.6.07

 

ソーシャルディスタンス

 ソーシャルディスタンス
 何、この横文字は
!
社会的距離と、日本語に訳されている。

ルカ17:12-13 「彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、」とある。サマリヤにも、ガリラヤにもいれない境で生活しているグループでる。社会的距離を取らなくてはならない人である。

 

 彼らは、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。私たちは、日ごろは見ないものが、見えてくるようになった。病気入院している人とは、面会ができない。老人施設で生活する方々と、顔を合わせることができない。自宅で生活していても、疾患があって、教会に出向けない人がいる。主は、そのすべての人々を、あわれまれる。

 

 7日、一堂に会して礼拝がささげられる。主に感謝の礼拝をささげたい。それでも、すぐに全員が戻ってはこれないだろうと受け止めている。時間がかかるのである。もうしばらく、忍ばなくてはならないだろう。神さまは、その日を備えてくださるに違いない。 




2020.5.24

聖霊降臨と旧約の預言

 531日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)である。聖霊降臨の出来事については、ペテロがその時にしたメッセージが、使徒行伝214節以降にでてくる。6-21節には、ヨエル書228-32にある預言の成就であると、そこに集まった人々に話している。

 17節に「老人は夢を見る」と記している。聖霊は、主イエスを信じる全世界中の人々に与えられる。老人には、「何の喜びもない」(伝道12:1)と、ソロモンは記したが、その老人は、希望に満たされるようになる。

 モーセは、主の霊が与えられることを願っていた。「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ。」(民数記11:29)私たちは感謝したい。聖霊の時代に生かされていることを。



2020.5.24

神の前に静まる

 神のみ前に奉仕する毎日を過ごしているのが,私たち牧師夫婦である。それは、主から託された群れへの奉仕ですから、尊い働きなのだと受け止めている。教会は、働きの前進のためには、群れの一人びとりが奉仕に与っていただければと願っている。

 奉仕するとは、行いである。何かをする。英語で「doing」という。教会では、神の前に静まる「being」を大切にしている。多忙な日々を過ごしていると、魂が渇いてくるのではないか。教会では、「奉仕」が強調される。「ああ、渇ける我を憐みたまえ」と、言葉を発してしまうかもしれない。

 静寂な場所と時間を確保したいものである。私たちは、主の御声を聞きたいのである。しっかりと、受け取っていけるなら、魂は生き返ってくる。奉仕や仕事は、「動」である。聖書を読み、祈り、黙想するは、「静」である。静を大切にしてこそ、日々の働きも奉仕も祝されるのではないか。

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」(詩篇4610)





2020.5.17

神の導き

使徒行伝16:7-10

 

  神の導きに従っていく。これがクリスチャンとしてのあるべき姿である。パウロは、アジアで御言を語る働きをしていた。導きを信じ、犠牲を払って働きを進めてきたに違いない。ところが、突如として聖霊はその働きを禁じられたのである。大切な働きの扉が閉じられる。「ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。」(7) 「許さなかった」は、強い表現ではないだろうか。

 

 扉が閉じられたのは、次の扉が開かれるためであった。パウロは幻を見た。「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(9)との声を聞いたのである。「マケドニアの叫び」として、知られている聖書の一コマである。この幻を通して、「神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」(10)とある。

 

 神の導きに従っていくのは、いかに大切なことだろう。私たちは、神の御旨を聞いているだろうか。これは、パウロだけでも、初代教会だけに限ったことではない。いつの時代にも問われていたことだ。新型コロナウイルスの一件は、神からのメッセージが込められていると信じている。私たちはメッセージを真剣に聞き、神の導きを求めたいものである。




2020.5.10


神の道は開かれている

 

あなたの道は海の中。

その通り道は大水の中。

              詩篇77篇19節

 

 詩篇77篇16-20節は、出エジプト14章21節の出来事を覚えて記された詩歌である。「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出14:21)

 

 イスエルの民が紅海までたどり着いた時、ファラオの軍勢が彼らを追っかけてきた。民たちは、どうすることもできない。私たちも、一生の中でこのような出来事を体験する。

 

 もうだめだ。万策尽きた。あきらめるしかない。絶望の淵に追いやられたときに、恵みのどんでん返しが起こる。人間的に万策尽きたとき、そこから、「あなた(神)の道」は、始まるのである。孤軍奮闘の中にあって、共に歩んでくれる人がない苦しい中に置かれたときに、「あなた(神)の道」は、開かれるのである。

 

 「あなた(神)の道」は、人間的に不可能と思える状況下でも前進できるようにしていただけるのである。「あなた(モーセ)は、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。」(出14:15)  モーセに対して、祈るのをやめて

前進させよ。神は、民に御手を差し伸べられた。




2020.5.3

信仰が守られ強められる

 押部谷教会は、4月12日から、高和教会は、4月19日から礼拝をライブによるネット配信に切り替えている。牧師は、教会で自由に礼拝などの集まりができない状況が続いても、信者さんの信仰が守られ、強められるようにとの祈りをささげている。

 

 信仰が守られ、強められるには、個人として恵みの供給のパイプを確保しておく必要がある。それは、神のみことばの供給である。教団のベラカを用いてディボーションする。聖書通読を励む。牧師の声のたよりに耳を傾けるなど、さまざまな方法が考えられる。

 

 マタイ第8章5〜13節には、百卒長の信仰についての記事である。短い記事ですから聖書を開いて読んでください。この中で、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」(8)に、目を止めたいと思う。ここに、神のお言葉に対する信仰を見るからである。

 

 主イエスは、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」(10)と、大変に喜ばれた。お言葉さえいただければを、私たちの信仰としたいと願っている。

 

 恵みの供給、それは御言葉がたえず注がれ続けていかなくてはならない。教会は、その重荷を持っていなければならない。もう一つ、御言葉の受けてである私たちは、それをどう受け取り続けていこうとしているのだろうか。それは、それぞれに託されている課題である。




2020.4.24

逆境の日には考えよ

 

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」

伝道の書7章14節

 

 比較的順調な日々は長く続かない。突然のように逆境に陥いる。新型コロナウイルスの世界的感染拡大は、すべての国民は悪影響を受けることとなった。医療崩壊が起こり、多くの死者がでている。感染リスクが高いので、できる限り家から出ないでほしいと言われる。学校の休校が長期間に、仕事を失う人がでてくるなど立ちはだかる問題は容易に終わらない。

 

 主にある人たちは、このような事態を神さまはご存じなはずだろう。だとすれば、この度の新型コロナウイルスを通して、神さまは世界に向けて、何らかのメッセージを送っておられるのではないか。そのような問いかけを神さまに向かって発するのは、不思議ではない。少なくても、冒頭の聖句にあるように、全人類は考えなくてはならない。

 

 私は、信仰者として次のように受け止めている。1 これは、神の警告である。今こそ、真剣に考えていただきたい。 2 今こそ、まことの神に悔い改め 立ちかえるときであるということ。 3  世の終わりに向けての最後のリバイバルを備えておられる。 この3つである。今は、耐え忍ばなくてはならない。生き抜かなくてはならない。この新型コロナウイルスが終息したのち、リバイバルを準備してくださっている。だとすれば、私たちは、今、おかれたところで希望をもって、動きはじめなくてはならないのではないだろうか。


2020.4.19

 

問い直そう 礼拝とは何かということ

 

新型コロナウイルス感染拡大にともない、兵庫教区の諸教会も会堂を用いた礼拝を断念して、家庭で礼拝を守り始めている。高和・押部谷教会は、zoomを用いて礼拝をネット配信を始めた。教団・教区もzoomを用いての会議に切り替えてきている。

 

礼拝に用いての利点は、ライブ配信することによって、自分だけでなく、教会の敷居が高いと思っている人も礼拝に参加できる。入院中でもスマホがあれば参加できる。出張先や海外でも問題なく接続できる。

 

急遽zoom導入を私たちの教会では定めで用い始めた。使う以前は、食わず嫌いで、「あんなもの使って何が礼拝や」と思い込んでいた。教区役員会でzoom導入を求められていたのに、固辞していた私である。使ってみると、使い勝手がいい。便利なものは、賢く用いていきたいと願っている。大切なことがある。本質的なこと。それは、集まって礼拝する意味である。

 

集まって共に礼拝を捧げる。そのことは、聖書からしっかりと押さえておかなければならないのではないか。真っ先に、マタイによる福音書18章20節に主イエスはこのように話しておられる。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。主イエスは、集まりを強く願われておられる。


2020.4.11

2020年のイースター

 

 4月12日は、イースターである。新型コロナウイルスによる緊急自粛要請により、会堂での集まりを持つことができなくなりました。1980年に牧師になってから、聖日礼拝が教会で行えないような経験はない。ましてや、イースター礼拝が持てないこと。涙がでてくる。

 

 集会が普通に会堂で持つことができる。それは、大変な感謝である。水道の蛇口をひねれば水がでてくるのが不思議でないように、会堂で礼拝が持てる。それは、当たり前ではなかったのである。

 

 感染拡大は、身近かで起こっている。自粛の言葉のもとで、窮屈な生活が強いられている。不安の日々の中にあると、御言葉に対するかわきを覚えるのではないか。コロナのニュースが耳に入ってくる。コロナ疲れを覚える。どうだろう。聖書を熟読してみないか。新しい発見があるに違いない。

 

 緊急事態宣言がでたその日、一つのお言葉が心に迫ってきた。「聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

」(ローマ15:4) 聖書が与えることができるもの。聖書しか与えることができないものがある。生かされた思いになった。 


2020.4.5

花壇から教えられたこと

 

 マタイ13章24節以降には、「人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。」(25)  そのようなたとえ話がでてくる。その話しは、「収穫まで、両方とも育つままにしておけ。」(30)とある。主イエスは、自然や日常にあるものを、たとえの材料として用いて、真理を教えられた。私たちも、聖書に教えられ、日常生活の中からも教えられたいと願う。

 

 4月。庭には次々と植物たちが花を咲かせている。キンギョソウ、アネモネ、菜の花など。名も知らない植物も植わっている。毎日、眺めていると、生長の度合いがあるのに気がついた。一週間前は、はっきり根もとが全体を見ることができたのに、今日は、となりに植わっている植物がより以上に大きくなって、今にも全体が隠れそうになっている。体が隠れそうになった苗は、大きく育っているものから離れたところに植えなおしてやるしかないだろう。

 

 ここから、何が教えられたのだろう。こんなことが脳裏に浮かんだ。教会の中には、信仰歴の長い人がいるし、数年前に洗礼を受けた人もいる。求道中の人もいる。花壇に似ていると思った。どうすればいいのだろう。それぞれに合わせた導き方があるのではないか。何も、すべては机に座ってできるものではない。自然の中にもヒントは限りなくあるのではないか。

2020.3.29

今こそ、祈らなければ

 

緊急な呼びかけです!
として、有賀喜一師がface bookにこのような寄稿があった。

 

 新型コロナウイルスの世界的拡大の猛威の中で、全てを支配なさる真の神への祈りが各種団体を通じてささげられています!ここでもう一つの提案です。根拠は、歴代第二7:14です。「共祷714」です。真の神の前に悔い改め、心を一つにして、回復と地の癒し、リバイバルを祈りましょう!毎日、午前7時14分と午後7時14分です。神様の最善が表わされますように信じてまいりましょう!!!

 

 「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。」(Ⅱ歴代志 7:14 口語訳)

 

 今こそ、私たちも祈りに心を合わせていこうではないか。

2020.3.22

すべての木を見なさい

 

  この数日、ぽかぽか陽気である。押部谷教会の庭の整備が進んでいる。新たな苗木も植えられた。苗木に目をやると、芽を出している。主イエスの言葉を思い出した。「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。 」(ルカ21:29-30)

 

  聖書には、世の終わりについて教えがある。主イエスは、その世の終わりの兆候があるのだという(7-19)。ルカ21章は、主の弟子たちの質問に、主イエスが答えたものである。合わせて29-30節では、再臨の主を待つ心構えをたとえで話された。植物は、私たちのような時計を持ち合わせてはいないが、時を知っている。「芽を出せば、…夏が近い…気づく」だろう。主が話された兆候から、世の終わりが近づいてきているのを知るとともに、主の来臨が近いことがわかる。

 

 私たちは、今の時をどう見ているだろう。11節には、「疫病」について述べられている。新型コロナウイルスがそれなのかどうかは私にはわからない。言えることは、この度の大きな出来事の中に神の何らかのメッセージがあると思っている。あなたはどう思うか。


2020.3.15

感謝

 

 新型コロナウイルスが世界的流行となった。日本の社会、経済が混乱して、重苦しい日々が続いている。このような日々にあって、「よくもクリスチャンは感謝、感謝と言えるものだ」との声が聞こえてきそうだ。だが、しかしである。「クリスチャンは、何ぞや」と聞かれたなら、「感謝する人」と、答えたい。

 

 何でも感謝、いつでも感謝、誰にでも感謝。感謝する人のところに、人はよってくる。感謝されて、悪い気はしない。教会では、伝道を口にする。伝道は、クリスチャンに託されている。私たちは、救いの教えを持っている。口でキリストの救いを語る。自らの救いを証しする。もう一つ、生活を通して証しが決めてとなる。それは、「感謝」である。人はクリスチャンが感謝して歩んでいる姿に引き付けられるのではないだろうか。

 

 ある伝道者は、このように記している。「たとい寝たきりになっても感謝できます。たとい死ななければならなくなっても、感謝できます」と。私たちは、感謝しているだろうか。

2020.3.8

 

東アフリカ バッタによる被害   

 

出エジプト10:12-20

 

  岡谷のスーパーでは、いなごの佃煮が売られていた。海なし県ゆえ、昔は海産物は貴重品であった。昔からの食生活のなごりなのだろう。いなごに限らず、蜂の子も食べるし、コイも食べる。話は、害虫としてのイナゴやバッタの話である。今年の2月に、東アフリカにバッタが大量発生により、作物を食い荒らす被害が報じられた。数千万人に食糧危機の恐れとあった。

 

 今から、三千年余り前に旧約聖書に、いなごの大群がエジプト全土を覆いつくす出来事があったのを思い出した。出エジプト記10章12-20節の記事である。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかったとある。この度の被害をもたらしたのは、サバクトビバッタである。アフリカと中東の乾燥した地域に生息していて、大雨が降って植物が繁茂すると大発生するのだそうだ。

 

 数千万が飢饉になるかもしれない。その地で生活できず大量難民が起きるかもしれない。地域紛争に発展するかもしれない。聖書を読み現在のニュースを合わせてみると、歴史は繰り返されているのがわかる。新型コロナウイルスの問題は、地球規模の問題になってきている。はたして神は、全人類にどのようなメッセージを示そうとしておられるのだろう。

 


タネから育てる

 

  ダリヤをタネから育て3年目になる。球根から育てるよりも、個人的にはタネから育てる方が愛着が増すように思う。一袋40粒を蒔いても、すべては発芽しない。発芽しても間引いてやる。最終的には半分程度になってしまう。今週の祈祷会ではマタイ13章を開いた。「種蒔きのたとえ」がでてくる。

 

 考えさせられたのは、20-21節の聖句である。「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」つまずいて、教会から遠ざかる人は、少なからずいる。

 

 困難や迫害は防ぎようがないとすれば、みことばによってしっかり育てていく以外にない。聖書教育の重要性とともに、日ごろから個人的にみことばに教えられる生き方を求めていきたい。ダリヤを育てるのは道楽である。牧師として信徒教育を行うのは、責任ある務めである。若い世代を主のみこころに沿って育てていくのは、教会の務めであると受け止めたいものである。



教会を訪ねる旅

 

 春になると、ちょっと旅をしたくなる。旅先で教会に立ち寄ってみられたことはなかっただろうか。函館に出かけたときに、教会群と呼ばれる一角を訪ねた。「日基教団 函館教会」の朝祷会にもでてきた。今でも、鮮明に記憶に残っている。

 

 函館の教会群には、他に「ハリストス正教会」と「カトリック元町教会」「聖ヨハネ教会」が含まれている。1853年、ペリーが浦賀に来航して日米親和条約を結んだ。翌年、下田と函館が開港された。外国人の居留地が作られ、洋館や教会も作られた。その地を歩くだけでもエキゾチックな思いに浸れるが、機会があれば中に入ってみるのがよい。

 

 昨年の夏は、夫婦で岡山県にある日基教団高梁教会を訪ねた。「石井のお父ちゃん」の映画ロケでも用いられているので、以前から興味があった。古い会堂であるが、今も礼拝や集会に用いている。観光ルートの中にある教会で自由に入ることができた。明治時代に建立、迫害を乗り越えて現在を迎えておられる。旅先では、教会をお訪ねされてはいかがだろう。迷惑にならないように注意するのは当然である。


2020.2.16

罪を赦す権威

マタイ9:1-13

 

 「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)   主イエスは、ご自分がこの世に来られた目的を明らかにしておられる。「罪人を招く」とは、彼が人の罪を赦す権威を持っておられるということである。大切なのは、罪を赦すことができるのは、主イエス以外におられないということである。

 

 中風の癒しの出来事がでてくる。主イエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(6)と、言われる。私たちは、他の聖句と合わせ見て、イエスこそが人となられた神であると受け止めている。主は、私たちの悩みや苦しみを知っておれる。深い愛とあわれみをもって、私たちの弱さを担われる。中風のいやしの出来事が、9章にでてくる。主イエスは、病いに侵された弱い肉体をも担われる。

  

 病いがいやされ、私たちの弱さをも覚えられるのは感謝である。私たちは、主イエスが世に来られた使命が、罪を赦すために来られたのを忘れてはならない。彼のところには、「多くの取税人や罪人たちが」(10)やってきていた。主は、現場主義を貫かれた。高く、遠いところから声をかけられてよしとする方ではなかったのである。


2020.2.9

 

部分

 

 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。(ローマ12章5節)  パウロは、ローマに宛てた手紙の中で、教会は、キリストの体だと言っている。牧師も、その部分に過ぎない。

 

 講壇に立ちメガネを取り出したところ、老眼鏡のツルが外れていてあわてた記憶がある。小さなネジが緩んで抜け落ちたのである。メガネは、レンズを含め14の部品からできている。レンズがあるだけでは役に立たない。

 

 教会も同じである。礼拝一つをとってみても、司会者、奏楽者、説教者、受付、献金、会場、音響の係りがいる。一人何役をこなす場合もあるが、基本的には、それぞれが受け持っている。説教者がいなくては困るが、説教者だけでは礼拝はなりたたない。一人ひとりの存在が大切である。


2020.2.2.

賛美の力

 

 クリスチャンは、神への賛美の献げものをする。礼拝の中ばかりでなく、日常の生活の中でも賛美する。日々、賛美する中で、賛美には不思議な力があるのに気が付かされたことがある。慰められたり、励まされたり、立ち上がらせたりする。

 

  個人時なことであるが、多感な中学生時代に、ちょっとした人生の壁にぶつかったことがある。立ち上がれないほどの苦境に置かれたそのときに、「主われを愛す」という賛美が頭の中に流れはじめて。教会学校の幼稚科さんのときから、歌ってきたので覚えていた。「主われを愛す 主は強ければ  われ弱くとも 恐れはあらじ わが主イエス わが主イエス      わが主イエス われを愛す」 旋律の中にこめられた言葉の力は、賛美の力である。不思議に賛美に助けられて、再び立ち上がることができた。

 

 クリスチャンにとって、神への賛美は、人生の目的そのものである。賛美のない生活は空虚である。「いつくしみ深き」など一般に知られた賛美もある。ご一緒に賛美しようではないか。


2020.1.26

聴くドラマ聖書

 

 スマートフォンで楽しめる聖書アプリ、「聴くドラマ聖書」をご存じであろうか。これは、日本初、本格的なドラマ仕立ての聖書アプリである。聖書の世界をよりリアルに描くため、総配役数1300以上を150人以上の俳優、声優が演じている。大和田伸也さん、奥田瑛二さん、井上芳雄さんをはじめとする有名俳優、声優が出演している。会話が生き生きと表現されていて、目を瞑って聞いていると、まるで映画を見ているような思いになる。

 

 『新改訳2017』の聖書を採用している。臨場感のあるオリジナルのBGMと効果音で聖書の世界に引き込まれる。聖書の一字一句たりとも手を入れてはいない。スマホ画面には、その場面、場面の聖書の言葉がでてくる。耳と目を働かせて、楽しむことができる。

 

 どうして、このような聖書アプリが生み出されたのだろうか。ウォールストリートで活躍してきた、ビル・ファンが、ビジネス問題で挫折していた。そのような中で、自らのルーツともいえる、聖書のオーディオブックに手を伸ばした。落胆した心に、聖書の「ことば」がしみていく。再び立ち上がった彼は、ひとつのビジョンを得た。「ことば」を聴くことによって、ともに人生を生き抜く力を得る文化事業を。財団を起こして、「聴くドラマ聖書」が誕生した。


2020.1.19

高和オカリナclub

 

 高和オカリナclubをスタートしたのは、2017年7月であった。毎月第3日曜日午後1時30分、高和地域福祉センターをお借りできたのは幸いであった。この1月の例会で31回となった。一回も休むことなく行うことができた。始めるきっかけは、「地域に開かれた宣教」のために何ができるだろう。考え、祈って出したのが、オカリナを用いての地域への働きかけであった。

 

 なぜオカリナなのだろう。牧師が活かせる趣味はこれしかなかったからである。信徒さんにも加わっていただける。やっていて楽しくないと長続きはしない。もってこいの楽器である。参加者は、楽譜が読める人ばかりではない。それでも、歳をとってからの楽器はハードルは高い。

 

 それでも、30回も会を重ねれば、遅々たる進歩ではあるがモノになってきている。3年通して、地域とオカリナclub共催で実施する「わくわくクリスマス」は、大きな成果である。最近は、地元の小学校の方から、「継続して」との声がでてくるようになってきた。教会から地域に溶け込まずして、働きの前進はないのではないか。これからも働きを継続していきたいと願っている。



2020.1.12

聖霊によらなければ

 求道中の方から、「救いの決断ができません」と言われたことがある。「理由でもあるのですか」と訊ねると、二つのことが信じられないからだという。「一つは、主イエスは神であること、二つは、主イエスが十字架にお架かりになられたのはわかりますが、よみがえられたということが信じられない」と、返ってきた。

 私は彼と、ローマ10章9節を開いていっしょに読んだ。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」と、あった。だが、人の知恵や知識では信じられないのは不思議ではない。

 Ⅰコリント12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」と、ある。勿論、神について、罪について、救いについて、まず知ってもらうことは大切である。救いは、聖霊が働かれなければ確信には至らないのである。私は、主イエスの救いを信じている。その確固たる確信は、聖霊が証ししてくださっているからに他ならない。

2020.1.5

聖霊に励まされて

使徒9:31

 個人、教会が強められ成長していくためには、励ましが必要である。壁にぶつかった時に、「君なら大丈夫」という言葉を私にかけてくださる人がいた。励まされて立ち上がることができた。教会もまた、聖霊に励まされて前進し続けることができると聖書に記してある。

 

 教会は、福音宣教の使命が与えられている。自らが救われた当時を振り返ると、溢れんばかりの喜びがこみ上げてくる。救われた人々の集まりである教会は、喜びと共に困難をも経験する。今日の日本の教会も試練に立たされている。

 

 70年余り前、キリスト教は青年の宗教と言われた。今は青年よりも高齢者が多い。若い世代が教会に繋がれないのだ。教会の先行きは、必ずしも明るくはない。聖書はこう記している。「主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」(31)  まずは、自らの信仰姿勢を問い直そうではないか。聖霊に励まされて、輝ける主の証し人になろう。1年先、2年先かもしれない。主は魂を備えてくださるに違いない。導きを信じて前進しよう。

2019.12.29

-東方の博士たち- 出会いの旅

 

 東方の博士たちが、はるばる旅をして御子イエス・キリストを礼拝する。これは、四福音書中マタイだけが記した降誕記事である。「わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(2) 彼らをベツレヘムまで先導したのは、星であった。

 

 博士たちの旅は、出会いの旅であった。「ユダヤ人の王としてお生れに」(2)なった方を拝みにとある。実際は、そんなちっぽけな王ではない。「王の王 主の主」(黙示19:16)なる方が、人となってこの世にこられた方を拝むための旅となった。

 

 御子なるイエスのために、博士たちは3つの贈り物を準備した。「黄金、乳香、没薬」(11)である。それぞれの贈り物には、意味がある。中でも「没薬」は、特別な意味を覚える。没薬は死んだ人の体に塗る。つまり、十字架である。イエス・キリストは、すべての人の罪を背負われて、罰を受けられた。博士たちに留まらず、すべての人が人生という旅のどこかで、キリストとの出会いを果たしてほしい。

 

 この出会いのために、人生のすべてをかけるだけの意味がある。あなたは、キリストとの確かな出会いの体験をもっておられるだろうか。


2019.12.22

クリスマス

ルカ2: 11

 

 キリスト降誕は、今から2千年前、ベツレヘムという町での出来事である。この第一報を受けたのは、近くで羊の夜番をしていた羊飼いたちであった。伝えたのは、主の使いで、次のような内容である。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(11) 

 

 主の使いの知らせに、羊飼いたちは恐れを覚えた。彼らは、貧しかったし、社会的な地位もなければ、宗教的にも縁遠かったからである。彼らは、急いでいって、マリヤとヨセフ、飼い葉桶に寝かせられているイエスを捜し当てた。

 

 「いれまつる家あらず 休めまつる宿もあらず ただむさき馬小屋を 仮の宿となしたもう」(新聖歌87番) 神が人の姿をとってこの世に降られたのを知れば知るほどに、感謝があふれてくる。その主は、貧しくなられた。私たちは、どのような思いでクリスマスを迎えるのだろうか。マタイ1、2章、ルカ1、2章、ヨハネ1章を味読してみよう。クリスマスの意味を知って、この日を迎えたいものである。


2019.12.15

神が人となり

ヨハネ1: 1、14

 

 ヨハネによる福音書は、不思議な書き出しから始まっている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 言は初めに神と共にあった。 」(1:1-2)   「初めに言があった」は、どう理解したらよいのだろう。創世記1章3節を開いてみると、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とある。この「言われた」に焦点を当てて、「初めに言があった」を見てみると、何となくわかった思いになるかもしれない。

 

 神は、「言」をもって天地・宇宙・万物を創造されたのはわかる。この神こそは、「ことばなる神」である。これから先がある。「ことばなる神」は、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14)とある。このお方が、イエス・キリストであると聖書の中に書いてある。

神が人となってこの世に来られたのは、よほどのことである。

 

 なぜによほどなのだろう。神の目を通しての、この世は「闇」なのだという。闇の中にある人々を救うために世に来られたのである。より具体的に言うならば、私たちを罪から救うために、自ら十字架にお架かりになられたのである。神の御名をほめたたえようではないか。

2019.12.8

2つの名前

マタイ1:21

 

 イエス・キリストの母マリヤは、聖霊によって身ごもった。いいなづけのヨセフは、その事実を知らなかった。マリヤのお腹は膨らんでいく中にあって、ヨセフの気持ちは萎んでいくばかりである。彼は、離縁をも考え始めるようになる。そうした状況下にあって、神ご自身が御使いを通して動かれた。

 

 ヨセフが寝静まっていたときに、御使いが夢に現れてマリヤ関する事の次第を伝えた。私たちも、さまざまな問題が生じたときには、まずは事実を正しく伝えることが大切である。御使いは、事の次第を伝える中に、「心配しないで」との言葉を挟んだ。私たちは、問題を抱えたときに「大丈夫」という言葉を耳にしたいと願うだろう。

 

 なおも、御使いはヨセフに告げる。それは、生まれてくる幼な子の名前である。一つは、「イエス」で、神は救いの意味である。もう一つは、「インマヌエル」で、「われらと共にいます」の意味である。2つの名前は、イエスのみ働きを表している。「名は体を表す」という故事があるが、主イエスのご生涯を名が示すとおりであった。御使いからの知らせを受けて、ヨセフと身重のマリヤはベツレヘムまで旅をして、そこで御子イエス・キリストが誕生したのである。


2019.12.1

ローソクを灯して

 12月1日の聖日からアドベント(待降節)に入る。この聖日には、1本目のローソクに火が灯る。8日には2本を灯し、15日には3本、22日のクリスマスには4本すべてを灯す。クリスマスまでの時を知らせる役割りをローソクが果たしている。

 ローソクの火を見ていると、次々と聖句が脳裏に浮かぶ。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)。「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19 - 20) 罪人が救われて、「光に来る」(21)ことは、自分の力ではできるものではない。ただただ恵みによる以外にない。感謝が湧き上がってくる。

 今、「ローソクの科学」(ファラデー著)が脚光を浴びている。ノーベル化学賞受賞者、吉野彰氏はこう話している。「小学校の先生の勧めで、この一冊を読んだのがきっかけで、科学者の道に進むようになった」とのこと。そこで、ファラデーについて調べてみた。「父ジェームスの信仰を受け継いだクリスチャンである。教会では、司祭を補佐する仕事も経験していて、集会の長老も二期つとめるなど、その信仰は熱心であった」のがわかった。正月、読み直してみたいと思う。


2019.11.24

一章入魂 

 

 魚べいという寿司屋の看板に、「一貫入魂」の文字を発見した。日ごろは冷めたモノの見方をしていても、ならば入ってみようかとの思いになった私である。ところで、私たちクリスチャンは、聖書のあちらこちらを開いて、御言葉のつまみ食いをして満足していないだろうか。それも一つの聖書の楽しみ方なのだとは思うが。

 

 「一貫入魂」を文字って、「一章入魂」という聖書の読み方をオススメしたい。飛ばすことなく1章を丹念に読み、また読み直し、重ねて読む。それから、次の章も同じように読んでいく。そうしていくうちに、多くの発見がある。たとえば、マタイの1章を開くとしよう。系図がでてくる。系図中5人の女の名前がでてくる。そのことにお気づきだろうか。

 

 「それがどうした」と、言葉が返ってくるかもしれない。最後の一人は、イエスの母マリヤである。後の4人がどういう人だったか旧約聖書を調べることになる。その調べた結果をもって、再びマタイの1章を読んでみよう。舌を噛みそうな名前の羅列にも、深い意味があったのだとわかる。11月20日の祈祷会から、「一章入魂」の思いでマタイの福音書を皮切りに、聖書を学び始めた。27日は、マタイ2章が開かれる。