牧師ひとくちメモ

2019.7.21

出来る限りのことを

マルコ14:8

 私たちは、一つ思い一つ心で前進できればどんなにいいかと思う。現実には、純粋な熱き思いから行った行為が周囲から受け止められないことある。ナルドの香油を主イエスの頭に注いだマリヤであった(マルコ14:1-9)。これにたいして、無駄なことをした。「売れば300デナリにもなり貧しい人々にでも施しが出来ただろう」と、憤るものもいた。

 

 憤ったのは、イスカリオテのユダであった(ヨハネ12:4)。表面的には、正当な発言に聞こえるだろう。主イエスは、マリヤ、そしてユダの心の内をみておられた。マリヤの行為は、意表をつくほどの大胆であった。主は、これを「出来る限りのことをした」と喜ばれた。後の世までマリヤのしたことは、覚えられると評価されたほどだ。

 

 私たちは、人の言葉を聞かなければならない。声に惑わされている限り、主イエスに私たちの純粋な心を届けられないとしてら悲しいとは思わないか。主イエスに今しかできないことがある。改めて言おう。周囲の声に惑わされている限り、主への献身の思いは届けられないかもしれないということを。


2019.7.14

信仰が問われる

ヘブル11:6
   どのようにしたら、神に喜んでいただけるのだろう。答えは、一つだけである。聖書の中にこう述べている。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)と。私たちが信じる神は、肉眼では見ることはできないが、今、ここに居ましたもうお方として仰ぐことが求められている。

 旧約聖書の中にでてくるモーセは、「その名(神の名)はなんというのですか」と、神にたずねてみた。すると、「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)との声があった。英語では、「I am who I am.」となる。人の目では見ることはできないが、「わたしはいるのである」との、意味である。

 クリスチャンは、目では見ることができない神に祈る。その祈りを神に聞かれる。聞いて答えられる。そのことを通して、私たちは神の実在の確信を持つことができる。主イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と、言われた。私たちは、聖書が教えられるとおりに祈る。祈ることも信仰によってである。私たちの信仰は、問われているのである。

2019.7.7

人を生かす言葉

マルコ5:34

 

 主イエスによって長血を患っていた女性が、癒された出来事がマルコ5:25-34に記されている。このところから、一つの出会い、そして一つことばによって、新たな人生を歩みだしているのがわかる。

 

 主イエスによって病いが癒されたのは、この女性がみ衣にさわったことによってであった。この時点では、だれが衣に触れたのかわからなかったのである。主は、ご自分の衣を触ったのがだれかを捜し始められた。探されたのには、理由があった。お言葉をかけたいと思われたからである。「あなたの信仰があなたを救った」(34)  と、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(34)である。

 

 主イエスに対する信仰が、一時だけで終わらず生涯に渡って大切なのを教えたかったのではないか。もう一つは、「安心して‥‥」との励ましの言葉である。人との別れぎわに励みになる言葉をかけてあげたいと思ったことはなかったか。その一言葉があって相手の心を開く。私たちもそのような機会を大切にしたいものである。


2019.6.30

一つになる

詩篇133篇1節

 旧約の時代、エルサレムで行われる三大祭りには、ユダヤ人の成人男子は必ず参加しなくてはならなかった。詩篇には、15の都上りの歌がある。人々は、口々に歌いながら上京したではなかろうか。

 

 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」詩篇133篇1節は、よく知られている。「和合」は、一つになっての意味である。これは、現実的には大変に難しいと思われる。10人寄れば10人とも違いがある。生まれも、言葉も違う。年齢も、違いもある。

 

 互いの違いを認め合いながらも、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)とある。「一致を守り続けるように努め」(同4:3)るべきことが教えられている。「共におるのはいかに麗しく楽しいこと」は、一つになる努力があってこそのものではなかろうか。たとえば、世界の平和を訴えることは大切であるが、自分たちも小さなところから何ができるかを問うてみなければならない。


2019.6.23

楽器を触る

創世記4:21
 21日に、オカリナ・コンサートの音合わせを、神戸バイブル・ハウスで行った。見事なピアノ伴奏で、オカリナの音色を引き上げてくださっているのがわかる。こんなにピアノが人前で弾けたらどんなにいいだろう。そんな思いになった。

 「彼(ユバル)は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。」(創4:21)との、聖句がある。神は、賛美に楽器が必要なのを知って、人に音楽の賜物を与えておられる。そればかりではない。音楽ができれば、人生が豊かになる。嬉しいときも、悲しいときも歌は共にある。

 オカリナは、楽器としての地位を得たのは30年ほど前くらいだと思う。それまでは、楽器としての安定感はなかった。私に、ピアノは無理でも、手元にオカリナがあっていつでも手に取ることができるのはありがたい。あなたが、ユバルを祖としているかどうかはわからない。考えることも意味はない。ハーモニカもよし、リコーダーもよいだろう。あなたも楽器に触れてみたいと願わないだろうか。

2019.6.16

血は肉のいのち

レビ17:11

 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)    キリスト教信仰は、血の信仰といってもよいと思う。

この理解を助ける聖句がある。「すべて肉の命は、その血と一つだから」(レビ17:14)である。今回の一口メモは、血についてである。

 

 血の成分で重要なのは、鉄である。成人男子は、体内にたった3グラムしかない。食生活から鉄分が補われなければ、貧血になる。貧血になると、酸素や栄養が体の隅々まで送れなくなる。そうすると、階段を上ると息切れする。夕暮れ以降ぐったりする。冷え性になる。めまい、動悸の原因にもなる。ウツにもなるという。

 

 不調の原因は、鉄不足にあるかもしれない。わたし自身も、はずかしながら貧血ぎみであることがわかった。腎臓からくるものらしい。1日10mgの鉄分が必要量である。鉄をなめてかかっている暇(いとま)は、私にはない。あなたは、大丈夫だろうか。


2019.6.9

聖霊のバプテスマ

使徒1:5

 福音が全世界に宣べ伝えられる。その働きを担うのが、先に救われた人々である。もう一つ、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)も受け止めておかなくてはならない。なぜだろう。それは、宣教の働きが聖霊の働きによってなされるものだからである。

 

 聖霊のバプテスマとは、「あなたがたは力を受け」とある。宣教や奉仕の働きには、「力」が必要である。私たちは、聖霊の賜物に思いがいくかもしれない。忘れてはならないのは、聖霊はわが内に住まわれ、その人の内から外に向かって働かれる。とすれば、内がきよめられることこそ大切であろう。

 

 聖霊は、ご人格である。そのご人格は、ゼントルマンに譬えられる。きよめられれば、宣教と奉仕に必要な働きの力は備えられるはずである。きよめの恵みを求めたい。


2019.6.2

失望に終わらない希望

ローマ5:5
 「試練」という言葉は、一般の人にはわかりにくいのではないか。それは、試みる者がいるのを前提としているからである。主イエスは、「悪魔に試みられ」ている。マタイ4章にその記録が残されている。試みられたとき、私たちはどのような心境だったか思い起こしてほしい。八方ふさがり、お先まっ暗になったことはなかったか。

 試練に遭遇している間は、トンネルにたとえることができる。その期間は長い短いはあっても、出口がある。その出口には、希望の光が差し込んでいる。神を信じる者には、希望を与えられる。それは、失望に終わらないという。私たちは、肉体的に精神的にも強じんではない。

 なぜ、希望が持てるのか。それは、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)である。私たちは、見るからに弱そうに見えるが、主にあって強いのである。


2019.5.26

十字架の愛

Ⅰヨハネ3:16

 神の愛がわからないという人がある。わからないという人に、「あなたのために死んだ人がいる」というメッセージを伝えたい。そのように聞いて、どのような反応を示すだろうか。聖書の1節には、「主(キリスト)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」(Ⅰヨハネ3:16)と、記されている。ここに、神の愛を見出すことができる。

 

 「わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とは、身代わりの死をいっている。本来、私たちは罪をもってこの世に生を受けた。神は、罪は憎まれる。裁かれなければならなかった。そこで、神はみ子イエス・キリストを十字架に架けて、全人類の罪の身代わりとされたのである。

 

 「わたしたちのために…」とあるから、あなたのためでもある。「…いのちを捨てて下さった」の後に、こう続く。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。」と。神の愛ほど、具体的な愛はないと思う。


2019.5.19

人とは何か

詩篇 8:4

 詩篇にこのような言葉がある。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(詩篇8:4) 私自身にとっては、人とは何者なのかを考える上で、大切な聖句であった。それは、すべての人にとって大切な問いかけである。

 2045年にAI(人工知能)の知性が人間を遥かに超えてしまう。2019年の今、2045年はそれほど先の話ではない。多くの分野で、AIが用いられるようになるのは、避けられない。「人とは何者か」が、この時代だからこそ問われてくるようになるのだと思う。

 AI(人工知能)と人間の違いはどこにあるのだろう。究極的には、「信仰を持っているのが人間」ということになる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6) まことの神なくしては、人は人として正しく生きていくことなど不可能である。


2019.5.12

自分の足で

Ⅱテモテ 1:5
 私たちは、親からさまざまなものを受け継ぐ。テモテは、「祖母ロイスと母ユニケとに宿った」(Ⅱテモテ1:5)信仰的感化の下で育ったと思われる。その信仰は、「あなた(テモテ)にも宿っている」(5)と、述べている。
 信仰が「宿る」とある。キリストを信じる信仰は生まれ持ったものではないからである。信仰は賜物、神から与えられるものである。
その信仰は、「偽りのない」(5)ものでなくてはならない。どこまでも誤りのない神のことばに立っているかが、正・偽の判断基準である。
 年若いテモテは、信仰(福音)の継承者となり、主の働き人になった。2代、3代クリスチャンは、「親がクリスチャンだから自分も信じている」というかもしれない。それは、感謝ではあるが、その一人ひとりが自分の信仰となり、自分の足で歩んでいるかが問われている。信仰の自立こそ大人のクリスチャンである。

2019.5.02

 

あなたの神を愛せよ

 

マルコ 12:30

 人生の目的は、「主なるあなたの神を愛する」(マルコ12:30)ことである。この聖句の前には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」とある。何と「つくす」が4回でてくる。

 改めて「心をつくし、……あなたの神を愛せよ」を、何度も読み直してみる。人生の目的はここにありと明言できる。仕事も家族も大切なのは、わかっている。すべては、マルコ12:30を土台に据えてから、その他の大切な部分を考えよう。

 それは、ただ聖日礼拝に出席するだけの話しではない。私たちの存在すべてをもって、神を愛する者でありたい。幸せな人生。それは、神を見出した人の中に訪れる。なぜなら、「つくす」べきものが何かがはっきりするからである。

 

 

2019.4.28

 

イエスは主なり
   
「あなたは、救いの確信がありますか」と問われるなら、どう答えるだろう。ある人は、教会に行くようになってから、病いが癒された、力をいただいた、慰めを得たとか、幸せになったなどと答えられるかもしれない。
 だからといって、それを聖書が教える救いだと思ってはならない。パウロは、ローマ人への手紙の中でこうしるしている。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」 (10:9 -10) ここで教えられていることは、あなたはイエスをどう見ているかである。
 「イエスは主」の主は、「イエスは神である」との意味である。もう一つ、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる」ことである。イエスの復活を信じるということである。

 

 

2019.4.21

 

昇天後のキリスト


ヘブル 7:25
 キリストが、すべての人のために十字架にお架かりになられた。救いの御業は完了したわけであるが、それだけで人が救われるわけでない。この歴史的事実が、私たち一人びとりに当てはめられなくてはならない。罪の中に滅びが定められていたこの私が、心からなる救いを求めなくてはならない。
 キリストは、十字架後に復活、昇天された。ここで着目していただきたいことがある。昇天後のキリストのお働きである。ヘブル人への手紙7章25節に、「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、…」(25a)とある。そんなにも「とりなし」は大切なのだろうか。
こう後に続く、「彼によって神に来る人人を、いつも救うことができる」(25b)ようにするためである。21世紀の今も、救われる人が起こされている。それは、キリストが今もとりなしておられるからである。

 

 

2019.4.14


大胆であれ


ヘブル 4:16
 控えめな人が好まれるのは、日本社会だけの話しなのだろうか。だからといって、すべてが控えめであっていいわけではない。
このような聖句がある。「大胆に恵みの御座に近づこうではないか」(新改訳2017 :16) 大胆であることが奨励されているからである。
 神の恵みの御座に近づくのは、足がすくむだろう。きよい神に対して生まれながらの罪人である私たちなのだから。
主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、その血によって罪をゆるし、きよめられる。
こうして、主を信じる人は、遠慮することなく恵みの御座に進みでることができる。
私たちの側から大胆に御前に進み出たい。