牧師ひとくちメモ

2020.9.27

畑を見なさい

 米の収穫の季節である。このところ自然災害があちらこちらで起こっている。猛暑でもあった。人間だけでなく、作物たちもきびしい季節を乗り越えての収穫である。押部谷教会では、サツマイモのイモ掘りを実施する。どれほどの収穫かは、掘ってみてのお楽しみとなる。

 ヨハネ4章35節をご覧いただきたい。「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。」 麦に穂がでていないのに、「はや色づいて刈入れを待っている」とは、面白い話しの中身だと思う。勿論これは、麦が植わる畑の話しではない。だとすると、何が言いたいのだろうか。

 人の心を、畑にたとえているのである。この世にある人々が、主の話しを聞こうとしている様子を述べている。主は、人の心の様をご覧になられて、その今の様子を麦が熟したことにたとえて言われたわけである。私たちは、今の時を何とみているのだろう。

2020.9.20

メメント・モリ

 

 押部谷教会では、今年の6月、8月と3人の男性を天にお送りした。天国は賑やかになっただろう。牧師の私は、40年の牧会生活の中で多くの方々を天にお送りした。キリスト教の施設で、亡くなった方の式も多く経験している。

 

 メメント・モリ(mement mori)との言葉をご存じだろうか。ラテン語である。「死を覚えよ、死を忘れるな!」の意味である。ネットで調べて見たところ、「この世の人生には必ず『死』がある。『死』のことから目を背けずに、誰にでも訪れる最期の時を意識して、それに備えしていく」大切さが、記されていた。

 

 2010年、2012年 流行語大賞にノミネートされた「終活」は、今や一般的に用いられるようになりました。教会では、「終活」という言葉は用いなくても、日ごろから「死後の希望」が話されている。

 

 メメント・モリを思い浮かべるとき、一つの聖書の言葉が思い起されてくる。ヨシュヤ記1章9節である。

「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。 


2020.9.13

お気を付けてください

 聖書には、中風(ちゅうぶ)という病がでてくる。旧約聖書にはでてこないが、福音書と、使徒行伝に合わせて13回でてきている。使徒行伝9:33には、「そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった。」 難病であるのがわかる。だが、中風について、よくわかっていなかったので、調べてみた。

 中風は、現在では脳血管障害(脳卒中)の後遺症による半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れ、麻痺などを指すとあった。牧師夫人の兄も昨年、脳梗塞になり、帰らぬ人となった。ガンとともに注意したい疾患である。突然、襲われることがある。

 私たちは、長く生きるようになった。私も、67歳。あわれみで、現役で奉仕させていただいている。動脈硬化だと医者から言われている。それだけに、注意しなくてはならない。血栓を溶かすナットウ(納豆)からとったナットウキナーゼを毎日いただくようにしている。注意しながら、主に委ねて歩みたいと願っている。



2020.9.6

主の祈りが変わるかも

 

 主の祈りが変わるかもしれません。いったい何のことと思われても不思議ではない。来春からは、新改訳2017を用いるようになる。ルカ福音書11章を、従来の口語訳とで見比べていただきたい。主の祈りの次の部分が変わっているのである。

 

口語訳聖書
わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。  

新漢訳2017
私たちの罪をお赦
(ゆる)しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦(ゆる)します。

 

 口語訳聖書では、「ゆるしますから」の「から」が、条件付きというわけである。新改訳2017は、「私たちの罪をお赦(ゆる)しください。」と、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦(ゆる)します。」を、切り離している。意味が違ってくるのである。日ごろ唱えている、主の祈りはかわるのだろうか。


 

2020.8.30

収穫の秋

 

 先週、地域の方から梨をいただいた。いただいたものは、市場には出せないキズものである。果肉は、雑味もなく甘みののったものだった。残暑は、きびしく秋を感じ取るのは、もうしばらく日にちがかかりそうである。

  柿もほのかに色づいてきている。栗も実が入ってきた。稲穂も垂れてきている。生産者は、収穫が待ち遠しいのではないだろうか。このような聖句がある。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。( ルカによる福音書102)

 収穫は、総出で当たる。猫の手も借りたいほどだという。神の畑はいかがなものだろう。秋は、教会にとっても大事な季節である。特に、10月には特別集会を行って、身近な人や近隣の人に声をかける。今年は、新型コロナによる3密回避が求められるため開催できない。残念である。今できることを、確実に行っていきたいものだ。


2020.8.23

ラクダにも水を

 猛暑が続いている。危険な暑さという言葉を耳にするようになった。中学生時代に熱中症を経験しているので、この暑い季節の礼拝を、気持ちよく守りたいものだと願っている。聖日に来会される方々のことが気になるのである。エントランスに冷茶スペースを設けることにした次第である。

 創世記24章には、リベカのことがでてくる。アブラハムの僕をイサクの嫁を求めて旅に出したできごとがでてくる。従者は、リベカと出会う。「泉に降りて、水がめを満たし、上がってきた時」(16)だった。水くみは、重労働であっただろう。

 このリベカに、 「あなたの水がめの水を少し飲ませてください」(17)と、僕は願いでた。そうしたところ、「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」。(19)と、かってでた。ラクダは、一頭当たり80リットルも水を飲むという。数頭いれば、大変な労働となる。リベカは、非常に美しいだけではない。気立てもよかったのである。人は、何をもって相手を評価しているのかはわからない。私たちも、神に人にどう見られているのだろう。


2020.8.16


新改訳2017が効用聖書に

 高和教会と押部谷教会は、2021年度から新改訳2017を用いることに決めた。教団の公用聖書に合わせた。牧師個人としては、高校時代から新改訳聖書を用いていた。神戸大石教会での13年間は、新改訳を教会で用いてきた。 

 新改訳2017というだけあって、長らく多くの福音派を中心に用いてきた新改訳聖書 第3版に大きく手を加えた聖書ということになる。変更箇所が3万箇所に及ぶという。大改訂版ということになる。

 今後も、継続して改訂されていくのだという。以前の訳と読み比べて見ると、格段によいものになっている。長らく、口語訳聖書を愛用された方々には、多少の抵抗があるかもしれない。時代と共に、聖書研究が進んでいるし、日本語も変化しいる。「バアルの宮をこわして、かわやとしたが今日まで残っている」 列王記下10章 27節で上げて見た。若い子たちには、「かわや」はわからないだろう。他の訳語を準備する必要があるのがわかる。

 新しい翻訳聖書を楽しんで手に取っていただきたいと願っている。



2020.8.09

新しい歌を

 

 聖書で新しい歌と言っているのは、流行歌のようなものではない。詩篇33章3節には、「新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。」とあるように、「主にむかって歌い」とあるから、これは賛美歌である。

 

 私どもの教会では、現在は新聖歌を主に用いている。ワーシップ・ソングも歌っている。新しい賛美歌が生み出されるのも歓迎である。新型コロナ・ウイルスの感染拡大をできるだけ避けるために、礼拝の中では、2曲を歌うだけである。4曲は歌いたいし、内1曲は、新しい賛美をも歌いたいと思っている。ネット礼拝も併用しているので、今は2曲程度しか歌えていない。

 

 新聖歌を開いてみても、500年前のルターの作った讃美歌もある。讃美歌245番「おもいいずるも」は、越天楽(えてんらく)を元にした讃美歌がある。若い世代を中心に、新しい賛美が生み出されている。讃美歌の中にでてくる曲を調べていくと面白い発見がある。新しい賛美歌は、大歓迎であるが、神への賛歌なのだから、歌詞がしっかりしたものであってほしいと願っている。 



2020.8.02

2教会 礼拝の合同

 昨年から検討してきました高和教会と押部谷教会が8月2日から、礼拝と教会学校を合同して実施することになった。同じ押部谷町にあること。しかも、車で7分で移動できることなど、その他の課題、これからの10年を見通してみると、最善の導きと受け止めた。

 本来は、今年の4月から実施する予定であったが、新型コロナによる緊急自粛要請に基づいて実施を先延ばししていた。現時点においても新型コロナの感染拡大は留まるところを知らない。感染予防に細心の注意を払うのは当然である。

 合同をしてところで、今は特別に何かができるわけではない。共に礼拝が献げられるだけで感謝したい。自粛制限が長く続いた4月から5月。私たちは、集まるのが当たり前だと思っていたが、そうではないのに気が付いた。私たちの意識は、少しずつ変わってきている。そう信じたい。これからの2教会の歩みの上に神の祝福があるように、願うばかりである。



2020.7.26

充電を要す

 スマホは、充電を要する。充電中にも使うことはできる。普通は、充電器にさしこんで完了するまでそのままにしておくだろう。私たちもまた、充電が必要である。精神的、肉体的、霊的にもそのことがあてはまる。

 

 聖書には、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 (詩篇46:10) 神の前に静まる。それは、神と交わるためである。このための特別な時間を設けなくてはならない。「忙しい。忙しい」と、口にしている私たちであるが、「神と交わる」は、神が人を創造するに当って定められた、神の創造目的である。

 

 牧師は、学びにも時間をかける。よい説教を心がけるためである。学びも、大切な充電である。年齢とともに、休めるときは休みたい。「休むも仕事のうち」は、言い得て余りある。みなさんは、精神的、肉体的、霊的、神との交わりの時間を意識しておられるだろうか。

 

2020.7.18

中心聖句

 

 旧約、新約は、合わせて66巻ある。その1巻を取り上げて読もうとするときに、中心聖句はどこにあるのだろうかt気にかかる。注解書などの解説書には、その箇所が記されている。たとえば、ローマ書の場合であれば、私は長らく1章16-17節にあると思っていた。この2節中には、福音の要約があるからである。

 

 いつも机の上においているバイブル・ナビは、違った箇所を記していた。5章1節である。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」これまた、納得である。

 

 聖書は、人が一生をかけても汲みつくせない恵みの宝庫である。聖書の学びは、人の心を豊かにする。あなた独自の各巻の中心聖句を発掘してみようではないか。


2020.7.12

さまざまな救援

 この度の豪雨は、熊本、福岡県などに甚大に被害を与えた。11日時点で、大雨はまだ続くようである。被害が最小限で収まるように祈ろうではないか。2016年4月、熊本での地震を思い起こしていた。キリスト教会は、さまざまな救援のために立ち上がった。

 救援の一つに、礼拝説教奉仕というのもあった。被災教会の牧師先生方が、被災された信徒ケアや片付けなどのために聖日に備えられない状況が生じた。今でこそ、ネット配信によって礼拝を実施することも可能にはなった。被災地からのさまざまなレポートに目を通しながら、義援金を送るだけではことが済まない問題があるのがわかった。

 初代教会は、キリスト教弾圧で苦しむエルサレム教会の支援のために献金を集めている。それをパウロに託した。Ⅰコリント16章をご覧いただきたい。ずっと昔から、教会には助け合う麗しい愛の姿が、聖書の記事として残されている。





2020.7.5

若い神の器

 

 神が年若いエレミヤを預言者に立てた。彼は年若かったので、自信がなかった。神は、彼を通して語ったことは、速やかに成就すると言われた。 そこで神は、 「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。(エレミヤ1:11) とある。 「あめんどう」とは、アーモンドである。

 

 アーモンドは、ヘブル語では「シャーケード」である。イスラエルでは、春に最初につぼみを付ける。これは、「目覚めている」の意味である。冬は、自然界が眠りの中にあったように見える。春は、自然界の目覚の季節である。その最初につぼみを付けるのが、アーモンドであった。

 

 ここで、語呂合わせがでてきている。「ショーケード」である。「見張っている」の意味である。アーモンドが春の季節の到来をいち早く告げるように、神が語られる言葉もその速やかな成就を示している。

 

 押部谷教会の花壇には、アーモンドが一本植わっている。一つだけ実を付けている。日本に、エレミヤのようにテモテのように若い献身者がでてくるように、祈っていきたい。





2020.6.28

突然の危機にも信仰

 

 日本は、自然災害が多い国である。梅雨時の集中豪雨による土砂崩れ、台風、地震、火山、温暖化によると見られる高温などである。主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが、とうごまは、一夜に生じて一夜に滅びたと記してあった。(ヨナ書4章) 猛暑になると、ヨナを思い起こすのは私だけであろうか。

 

 突然の危機の中で、最大の力となるのが信仰である。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」(箴言3章5節)時々、神さまを信じていたのに、自分の思ったのと違う方向にいってしまうことがある。状況がどうであれ、信じることをやめてはならない。うまくいかないと、「自分の知識に」頼みがちになる。

 

 

 信仰とは、神との信頼関係である。信頼をもとにして、危機に立ち向かっていきたいのである。私たちの信仰は、いついかなるときにも問われているのである。私たちは、強くはない。群れがあるというのは、なんと幸いなことであろうか。




2020.6.21

「人生、手放すべきもの」

 年とともに増えるのは3S、「シミ、シワ、シラガ」である。年とともに手放すものもある。若さもその一つである。最近は、豊かな人生を生きる上で、手放すことも大切と思うようになった。

 年齢のことばかりではなく、人生のすべてにおいて言えるのは、何かにしがみついている限り、前に進むことなどできない。しがみついているものの周りを、ぐるぐる回っているに過ぎない。

 イエス・キリストは十字架上で、私たちに代わって「神に捨てられる」をお受けになられた。もちろん、主イエスご自身から御父との関係を手放されたわけではない。その結果として、私たちは見い出されたのである。

 私たちは、前に進んでいかなくてはならない。しがみついているものを手放してみる必要があるのではなかろうか。

 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」10月19日 片柳弘史著 を参考にしました。


 

2020.6.14

砕けた魂

詩篇51篇17節

 主なる神は、どのような魂を求めておられるのだろう。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です」とある。私たちは、さまざまな信仰者として、教会生活を送っている。「砕けた魂」を、何より最重要と受け止めたいものである。

 「砕く」と聞いて、採石場のことが浮かんだ。天然の岩石や道路用骨材やコンクリート用骨材を、建築用資材として適する粒度に加工している。見学してみて、砕かなければ、用いられないのがわかった。

 力で困難を乗り切るという生き方がある。どんなに力を注いでも何ともならないことケースもある。力を振るうほど、問題がややこしくなる場合もある。砕かれて、ゼロにされて、初めて開かれてゆく道がある。「神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。」と、心に刻んでおこうではないか。
参考:今日を生きる言葉 聖句断想366日 小島誠志 7月30日「砕かれる」の項



2020.6.07

 

ソーシャルディスタンス

 ソーシャルディスタンス
 何、この横文字は
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社会的距離と、日本語に訳されている。

ルカ17:12-13 「彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、」とある。サマリヤにも、ガリラヤにもいれない境で生活しているグループでる。社会的距離を取らなくてはならない人である。

 

 彼らは、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。私たちは、日ごろは見ないものが、見えてくるようになった。病気入院している人とは、面会ができない。老人施設で生活する方々と、顔を合わせることができない。自宅で生活していても、疾患があって、教会に出向けない人がいる。主は、そのすべての人々を、あわれまれる。

 

 7日、一堂に会して礼拝がささげられる。主に感謝の礼拝をささげたい。それでも、すぐに全員が戻ってはこれないだろうと受け止めている。時間がかかるのである。もうしばらく、忍ばなくてはならないだろう。神さまは、その日を備えてくださるに違いない。 




2020.5.24

聖霊降臨と旧約の預言

 531日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)である。聖霊降臨の出来事については、ペテロがその時にしたメッセージが、使徒行伝214節以降にでてくる。6-21節には、ヨエル書228-32にある預言の成就であると、そこに集まった人々に話している。

 17節に「老人は夢を見る」と記している。聖霊は、主イエスを信じる全世界中の人々に与えられる。老人には、「何の喜びもない」(伝道12:1)と、ソロモンは記したが、その老人は、希望に満たされるようになる。

 モーセは、主の霊が与えられることを願っていた。「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ。」(民数記11:29)私たちは感謝したい。聖霊の時代に生かされていることを。



2020.5.24

神の前に静まる

 神のみ前に奉仕する毎日を過ごしているのが,私たち牧師夫婦である。それは、主から託された群れへの奉仕ですから、尊い働きなのだと受け止めている。教会は、働きの前進のためには、群れの一人びとりが奉仕に与っていただければと願っている。

 奉仕するとは、行いである。何かをする。英語で「doing」という。教会では、神の前に静まる「being」を大切にしている。多忙な日々を過ごしていると、魂が渇いてくるのではないか。教会では、「奉仕」が強調される。「ああ、渇ける我を憐みたまえ」と、言葉を発してしまうかもしれない。

 静寂な場所と時間を確保したいものである。私たちは、主の御声を聞きたいのである。しっかりと、受け取っていけるなら、魂は生き返ってくる。奉仕や仕事は、「動」である。聖書を読み、祈り、黙想するは、「静」である。静を大切にしてこそ、日々の働きも奉仕も祝されるのではないか。

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」(詩篇4610)





2020.5.17

神の導き

使徒行伝16:7-10

 

  神の導きに従っていく。これがクリスチャンとしてのあるべき姿である。パウロは、アジアで御言を語る働きをしていた。導きを信じ、犠牲を払って働きを進めてきたに違いない。ところが、突如として聖霊はその働きを禁じられたのである。大切な働きの扉が閉じられる。「ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。」(7) 「許さなかった」は、強い表現ではないだろうか。

 

 扉が閉じられたのは、次の扉が開かれるためであった。パウロは幻を見た。「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」(9)との声を聞いたのである。「マケドニアの叫び」として、知られている聖書の一コマである。この幻を通して、「神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」(10)とある。

 

 神の導きに従っていくのは、いかに大切なことだろう。私たちは、神の御旨を聞いているだろうか。これは、パウロだけでも、初代教会だけに限ったことではない。いつの時代にも問われていたことだ。新型コロナウイルスの一件は、神からのメッセージが込められていると信じている。私たちはメッセージを真剣に聞き、神の導きを求めたいものである。




2020.5.10


神の道は開かれている

 

あなたの道は海の中。

その通り道は大水の中。

              詩篇77篇19節

 

 詩篇77篇16-20節は、出エジプト14章21節の出来事を覚えて記された詩歌である。「モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。」(出14:21)

 

 イスエルの民が紅海までたどり着いた時、ファラオの軍勢が彼らを追っかけてきた。民たちは、どうすることもできない。私たちも、一生の中でこのような出来事を体験する。

 

 もうだめだ。万策尽きた。あきらめるしかない。絶望の淵に追いやられたときに、恵みのどんでん返しが起こる。人間的に万策尽きたとき、そこから、「あなた(神)の道」は、始まるのである。孤軍奮闘の中にあって、共に歩んでくれる人がない苦しい中に置かれたときに、「あなた(神)の道」は、開かれるのである。

 

 「あなた(神)の道」は、人間的に不可能と思える状況下でも前進できるようにしていただけるのである。「あなた(モーセ)は、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。」(出14:15)  モーセに対して、祈るのをやめて

前進させよ。神は、民に御手を差し伸べられた。




2020.5.3

信仰が守られ強められる

 押部谷教会は、4月12日から、高和教会は、4月19日から礼拝をライブによるネット配信に切り替えている。牧師は、教会で自由に礼拝などの集まりができない状況が続いても、信者さんの信仰が守られ、強められるようにとの祈りをささげている。

 

 信仰が守られ、強められるには、個人として恵みの供給のパイプを確保しておく必要がある。それは、神のみことばの供給である。教団のベラカを用いてディボーションする。聖書通読を励む。牧師の声のたよりに耳を傾けるなど、さまざまな方法が考えられる。

 

 マタイ第8章5〜13節には、百卒長の信仰についての記事である。短い記事ですから聖書を開いて読んでください。この中で、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。」(8)に、目を止めたいと思う。ここに、神のお言葉に対する信仰を見るからである。

 

 主イエスは、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」(10)と、大変に喜ばれた。お言葉さえいただければを、私たちの信仰としたいと願っている。

 

 恵みの供給、それは御言葉がたえず注がれ続けていかなくてはならない。教会は、その重荷を持っていなければならない。もう一つ、御言葉の受けてである私たちは、それをどう受け取り続けていこうとしているのだろうか。それは、それぞれに託されている課題である。




2020.4.24

逆境の日には考えよ

 

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」

伝道の書7章14節

 

 比較的順調な日々は長く続かない。突然のように逆境に陥いる。新型コロナウイルスの世界的感染拡大は、すべての国民は悪影響を受けることとなった。医療崩壊が起こり、多くの死者がでている。感染リスクが高いので、できる限り家から出ないでほしいと言われる。学校の休校が長期間に、仕事を失う人がでてくるなど立ちはだかる問題は容易に終わらない。

 

 主にある人たちは、このような事態を神さまはご存じなはずだろう。だとすれば、この度の新型コロナウイルスを通して、神さまは世界に向けて、何らかのメッセージを送っておられるのではないか。そのような問いかけを神さまに向かって発するのは、不思議ではない。少なくても、冒頭の聖句にあるように、全人類は考えなくてはならない。

 

 私は、信仰者として次のように受け止めている。1 これは、神の警告である。今こそ、真剣に考えていただきたい。 2 今こそ、まことの神に悔い改め 立ちかえるときであるということ。 3  世の終わりに向けての最後のリバイバルを備えておられる。 この3つである。今は、耐え忍ばなくてはならない。生き抜かなくてはならない。この新型コロナウイルスが終息したのち、リバイバルを準備してくださっている。だとすれば、私たちは、今、おかれたところで希望をもって、動きはじめなくてはならないのではないだろうか。


2020.4.19

 

問い直そう 礼拝とは何かということ

 

新型コロナウイルス感染拡大にともない、兵庫教区の諸教会も会堂を用いた礼拝を断念して、家庭で礼拝を守り始めている。高和・押部谷教会は、zoomを用いて礼拝をネット配信を始めた。教団・教区もzoomを用いての会議に切り替えてきている。

 

礼拝に用いての利点は、ライブ配信することによって、自分だけでなく、教会の敷居が高いと思っている人も礼拝に参加できる。入院中でもスマホがあれば参加できる。出張先や海外でも問題なく接続できる。

 

急遽zoom導入を私たちの教会では定めで用い始めた。使う以前は、食わず嫌いで、「あんなもの使って何が礼拝や」と思い込んでいた。教区役員会でzoom導入を求められていたのに、固辞していた私である。使ってみると、使い勝手がいい。便利なものは、賢く用いていきたいと願っている。大切なことがある。本質的なこと。それは、集まって礼拝する意味である。

 

集まって共に礼拝を捧げる。そのことは、聖書からしっかりと押さえておかなければならないのではないか。真っ先に、マタイによる福音書18章20節に主イエスはこのように話しておられる。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。主イエスは、集まりを強く願われておられる。


2020.4.11

2020年のイースター

 

 4月12日は、イースターである。新型コロナウイルスによる緊急自粛要請により、会堂での集まりを持つことができなくなりました。1980年に牧師になってから、聖日礼拝が教会で行えないような経験はない。ましてや、イースター礼拝が持てないこと。涙がでてくる。

 

 集会が普通に会堂で持つことができる。それは、大変な感謝である。水道の蛇口をひねれば水がでてくるのが不思議でないように、会堂で礼拝が持てる。それは、当たり前ではなかったのである。

 

 感染拡大は、身近かで起こっている。自粛の言葉のもとで、窮屈な生活が強いられている。不安の日々の中にあると、御言葉に対するかわきを覚えるのではないか。コロナのニュースが耳に入ってくる。コロナ疲れを覚える。どうだろう。聖書を熟読してみないか。新しい発見があるに違いない。

 

 緊急事態宣言がでたその日、一つのお言葉が心に迫ってきた。「聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

」(ローマ15:4) 聖書が与えることができるもの。聖書しか与えることができないものがある。生かされた思いになった。 


2020.4.5

花壇から教えられたこと

 

 マタイ13章24節以降には、「人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。」(25)  そのようなたとえ話がでてくる。その話しは、「収穫まで、両方とも育つままにしておけ。」(30)とある。主イエスは、自然や日常にあるものを、たとえの材料として用いて、真理を教えられた。私たちも、聖書に教えられ、日常生活の中からも教えられたいと願う。

 

 4月。庭には次々と植物たちが花を咲かせている。キンギョソウ、アネモネ、菜の花など。名も知らない植物も植わっている。毎日、眺めていると、生長の度合いがあるのに気がついた。一週間前は、はっきり根もとが全体を見ることができたのに、今日は、となりに植わっている植物がより以上に大きくなって、今にも全体が隠れそうになっている。体が隠れそうになった苗は、大きく育っているものから離れたところに植えなおしてやるしかないだろう。

 

 ここから、何が教えられたのだろう。こんなことが脳裏に浮かんだ。教会の中には、信仰歴の長い人がいるし、数年前に洗礼を受けた人もいる。求道中の人もいる。花壇に似ていると思った。どうすればいいのだろう。それぞれに合わせた導き方があるのではないか。何も、すべては机に座ってできるものではない。自然の中にもヒントは限りなくあるのではないか。

2020.3.29

今こそ、祈らなければ

 

緊急な呼びかけです!
として、有賀喜一師がface bookにこのような寄稿があった。

 

 新型コロナウイルスの世界的拡大の猛威の中で、全てを支配なさる真の神への祈りが各種団体を通じてささげられています!ここでもう一つの提案です。根拠は、歴代第二7:14です。「共祷714」です。真の神の前に悔い改め、心を一つにして、回復と地の癒し、リバイバルを祈りましょう!毎日、午前7時14分と午後7時14分です。神様の最善が表わされますように信じてまいりましょう!!!

 

 「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。」(Ⅱ歴代志 7:14 口語訳)

 

 今こそ、私たちも祈りに心を合わせていこうではないか。

2020.3.22

すべての木を見なさい

 

  この数日、ぽかぽか陽気である。押部谷教会の庭の整備が進んでいる。新たな苗木も植えられた。苗木に目をやると、芽を出している。主イエスの言葉を思い出した。「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。 」(ルカ21:29-30)

 

  聖書には、世の終わりについて教えがある。主イエスは、その世の終わりの兆候があるのだという(7-19)。ルカ21章は、主の弟子たちの質問に、主イエスが答えたものである。合わせて29-30節では、再臨の主を待つ心構えをたとえで話された。植物は、私たちのような時計を持ち合わせてはいないが、時を知っている。「芽を出せば、…夏が近い…気づく」だろう。主が話された兆候から、世の終わりが近づいてきているのを知るとともに、主の来臨が近いことがわかる。

 

 私たちは、今の時をどう見ているだろう。11節には、「疫病」について述べられている。新型コロナウイルスがそれなのかどうかは私にはわからない。言えることは、この度の大きな出来事の中に神の何らかのメッセージがあると思っている。あなたはどう思うか。


2020.3.15

感謝

 

 新型コロナウイルスが世界的流行となった。日本の社会、経済が混乱して、重苦しい日々が続いている。このような日々にあって、「よくもクリスチャンは感謝、感謝と言えるものだ」との声が聞こえてきそうだ。だが、しかしである。「クリスチャンは、何ぞや」と聞かれたなら、「感謝する人」と、答えたい。

 

 何でも感謝、いつでも感謝、誰にでも感謝。感謝する人のところに、人はよってくる。感謝されて、悪い気はしない。教会では、伝道を口にする。伝道は、クリスチャンに託されている。私たちは、救いの教えを持っている。口でキリストの救いを語る。自らの救いを証しする。もう一つ、生活を通して証しが決めてとなる。それは、「感謝」である。人はクリスチャンが感謝して歩んでいる姿に引き付けられるのではないだろうか。

 

 ある伝道者は、このように記している。「たとい寝たきりになっても感謝できます。たとい死ななければならなくなっても、感謝できます」と。私たちは、感謝しているだろうか。

2020.3.8

 

東アフリカ バッタによる被害   

 

出エジプト10:12-20

 

  岡谷のスーパーでは、いなごの佃煮が売られていた。海なし県ゆえ、昔は海産物は貴重品であった。昔からの食生活のなごりなのだろう。いなごに限らず、蜂の子も食べるし、コイも食べる。話は、害虫としてのイナゴやバッタの話である。今年の2月に、東アフリカにバッタが大量発生により、作物を食い荒らす被害が報じられた。数千万人に食糧危機の恐れとあった。

 

 今から、三千年余り前に旧約聖書に、いなごの大群がエジプト全土を覆いつくす出来事があったのを思い出した。出エジプト記10章12-20節の記事である。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかったとある。この度の被害をもたらしたのは、サバクトビバッタである。アフリカと中東の乾燥した地域に生息していて、大雨が降って植物が繁茂すると大発生するのだそうだ。

 

 数千万が飢饉になるかもしれない。その地で生活できず大量難民が起きるかもしれない。地域紛争に発展するかもしれない。聖書を読み現在のニュースを合わせてみると、歴史は繰り返されているのがわかる。新型コロナウイルスの問題は、地球規模の問題になってきている。はたして神は、全人類にどのようなメッセージを示そうとしておられるのだろう。

 


タネから育てる

 

  ダリヤをタネから育て3年目になる。球根から育てるよりも、個人的にはタネから育てる方が愛着が増すように思う。一袋40粒を蒔いても、すべては発芽しない。発芽しても間引いてやる。最終的には半分程度になってしまう。今週の祈祷会ではマタイ13章を開いた。「種蒔きのたとえ」がでてくる。

 

 考えさせられたのは、20-21節の聖句である。「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」つまずいて、教会から遠ざかる人は、少なからずいる。

 

 困難や迫害は防ぎようがないとすれば、みことばによってしっかり育てていく以外にない。聖書教育の重要性とともに、日ごろから個人的にみことばに教えられる生き方を求めていきたい。ダリヤを育てるのは道楽である。牧師として信徒教育を行うのは、責任ある務めである。若い世代を主のみこころに沿って育てていくのは、教会の務めであると受け止めたいものである。



教会を訪ねる旅

 

 春になると、ちょっと旅をしたくなる。旅先で教会に立ち寄ってみられたことはなかっただろうか。函館に出かけたときに、教会群と呼ばれる一角を訪ねた。「日基教団 函館教会」の朝祷会にもでてきた。今でも、鮮明に記憶に残っている。

 

 函館の教会群には、他に「ハリストス正教会」と「カトリック元町教会」「聖ヨハネ教会」が含まれている。1853年、ペリーが浦賀に来航して日米親和条約を結んだ。翌年、下田と函館が開港された。外国人の居留地が作られ、洋館や教会も作られた。その地を歩くだけでもエキゾチックな思いに浸れるが、機会があれば中に入ってみるのがよい。

 

 昨年の夏は、夫婦で岡山県にある日基教団高梁教会を訪ねた。「石井のお父ちゃん」の映画ロケでも用いられているので、以前から興味があった。古い会堂であるが、今も礼拝や集会に用いている。観光ルートの中にある教会で自由に入ることができた。明治時代に建立、迫害を乗り越えて現在を迎えておられる。旅先では、教会をお訪ねされてはいかがだろう。迷惑にならないように注意するのは当然である。


2020.2.16

罪を赦す権威

マタイ9:1-13

 

 「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)   主イエスは、ご自分がこの世に来られた目的を明らかにしておられる。「罪人を招く」とは、彼が人の罪を赦す権威を持っておられるということである。大切なのは、罪を赦すことができるのは、主イエス以外におられないということである。

 

 中風の癒しの出来事がでてくる。主イエスは、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(6)と、言われる。私たちは、他の聖句と合わせ見て、イエスこそが人となられた神であると受け止めている。主は、私たちの悩みや苦しみを知っておれる。深い愛とあわれみをもって、私たちの弱さを担われる。中風のいやしの出来事が、9章にでてくる。主イエスは、病いに侵された弱い肉体をも担われる。

  

 病いがいやされ、私たちの弱さをも覚えられるのは感謝である。私たちは、主イエスが世に来られた使命が、罪を赦すために来られたのを忘れてはならない。彼のところには、「多くの取税人や罪人たちが」(10)やってきていた。主は、現場主義を貫かれた。高く、遠いところから声をかけられてよしとする方ではなかったのである。


2020.2.9

 

部分

 

 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。(ローマ12章5節)  パウロは、ローマに宛てた手紙の中で、教会は、キリストの体だと言っている。牧師も、その部分に過ぎない。

 

 講壇に立ちメガネを取り出したところ、老眼鏡のツルが外れていてあわてた記憶がある。小さなネジが緩んで抜け落ちたのである。メガネは、レンズを含め14の部品からできている。レンズがあるだけでは役に立たない。

 

 教会も同じである。礼拝一つをとってみても、司会者、奏楽者、説教者、受付、献金、会場、音響の係りがいる。一人何役をこなす場合もあるが、基本的には、それぞれが受け持っている。説教者がいなくては困るが、説教者だけでは礼拝はなりたたない。一人ひとりの存在が大切である。


2020.2.2.

賛美の力

 

 クリスチャンは、神への賛美の献げものをする。礼拝の中ばかりでなく、日常の生活の中でも賛美する。日々、賛美する中で、賛美には不思議な力があるのに気が付かされたことがある。慰められたり、励まされたり、立ち上がらせたりする。

 

  個人時なことであるが、多感な中学生時代に、ちょっとした人生の壁にぶつかったことがある。立ち上がれないほどの苦境に置かれたそのときに、「主われを愛す」という賛美が頭の中に流れはじめて。教会学校の幼稚科さんのときから、歌ってきたので覚えていた。「主われを愛す 主は強ければ  われ弱くとも 恐れはあらじ わが主イエス わが主イエス      わが主イエス われを愛す」 旋律の中にこめられた言葉の力は、賛美の力である。不思議に賛美に助けられて、再び立ち上がることができた。

 

 クリスチャンにとって、神への賛美は、人生の目的そのものである。賛美のない生活は空虚である。「いつくしみ深き」など一般に知られた賛美もある。ご一緒に賛美しようではないか。


2020.1.26

聴くドラマ聖書

 

 スマートフォンで楽しめる聖書アプリ、「聴くドラマ聖書」をご存じであろうか。これは、日本初、本格的なドラマ仕立ての聖書アプリである。聖書の世界をよりリアルに描くため、総配役数1300以上を150人以上の俳優、声優が演じている。大和田伸也さん、奥田瑛二さん、井上芳雄さんをはじめとする有名俳優、声優が出演している。会話が生き生きと表現されていて、目を瞑って聞いていると、まるで映画を見ているような思いになる。

 

 『新改訳2017』の聖書を採用している。臨場感のあるオリジナルのBGMと効果音で聖書の世界に引き込まれる。聖書の一字一句たりとも手を入れてはいない。スマホ画面には、その場面、場面の聖書の言葉がでてくる。耳と目を働かせて、楽しむことができる。

 

 どうして、このような聖書アプリが生み出されたのだろうか。ウォールストリートで活躍してきた、ビル・ファンが、ビジネス問題で挫折していた。そのような中で、自らのルーツともいえる、聖書のオーディオブックに手を伸ばした。落胆した心に、聖書の「ことば」がしみていく。再び立ち上がった彼は、ひとつのビジョンを得た。「ことば」を聴くことによって、ともに人生を生き抜く力を得る文化事業を。財団を起こして、「聴くドラマ聖書」が誕生した。


2020.1.19

高和オカリナclub

 

 高和オカリナclubをスタートしたのは、2017年7月であった。毎月第3日曜日午後1時30分、高和地域福祉センターをお借りできたのは幸いであった。この1月の例会で31回となった。一回も休むことなく行うことができた。始めるきっかけは、「地域に開かれた宣教」のために何ができるだろう。考え、祈って出したのが、オカリナを用いての地域への働きかけであった。

 

 なぜオカリナなのだろう。牧師が活かせる趣味はこれしかなかったからである。信徒さんにも加わっていただける。やっていて楽しくないと長続きはしない。もってこいの楽器である。参加者は、楽譜が読める人ばかりではない。それでも、歳をとってからの楽器はハードルは高い。

 

 それでも、30回も会を重ねれば、遅々たる進歩ではあるがモノになってきている。3年通して、地域とオカリナclub共催で実施する「わくわくクリスマス」は、大きな成果である。最近は、地元の小学校の方から、「継続して」との声がでてくるようになってきた。教会から地域に溶け込まずして、働きの前進はないのではないか。これからも働きを継続していきたいと願っている。



2020.1.12

聖霊によらなければ

 求道中の方から、「救いの決断ができません」と言われたことがある。「理由でもあるのですか」と訊ねると、二つのことが信じられないからだという。「一つは、主イエスは神であること、二つは、主イエスが十字架にお架かりになられたのはわかりますが、よみがえられたということが信じられない」と、返ってきた。

 私は彼と、ローマ10章9節を開いていっしょに読んだ。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」と、あった。だが、人の知恵や知識では信じられないのは不思議ではない。

 Ⅰコリント12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」と、ある。勿論、神について、罪について、救いについて、まず知ってもらうことは大切である。救いは、聖霊が働かれなければ確信には至らないのである。私は、主イエスの救いを信じている。その確固たる確信は、聖霊が証ししてくださっているからに他ならない。

2020.1.5

聖霊に励まされて

使徒9:31

 個人、教会が強められ成長していくためには、励ましが必要である。壁にぶつかった時に、「君なら大丈夫」という言葉を私にかけてくださる人がいた。励まされて立ち上がることができた。教会もまた、聖霊に励まされて前進し続けることができると聖書に記してある。

 

 教会は、福音宣教の使命が与えられている。自らが救われた当時を振り返ると、溢れんばかりの喜びがこみ上げてくる。救われた人々の集まりである教会は、喜びと共に困難をも経験する。今日の日本の教会も試練に立たされている。

 

 70年余り前、キリスト教は青年の宗教と言われた。今は青年よりも高齢者が多い。若い世代が教会に繋がれないのだ。教会の先行きは、必ずしも明るくはない。聖書はこう記している。「主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」(31)  まずは、自らの信仰姿勢を問い直そうではないか。聖霊に励まされて、輝ける主の証し人になろう。1年先、2年先かもしれない。主は魂を備えてくださるに違いない。導きを信じて前進しよう。

2019.12.29

-東方の博士たち- 出会いの旅

 

 東方の博士たちが、はるばる旅をして御子イエス・キリストを礼拝する。これは、四福音書中マタイだけが記した降誕記事である。「わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(2) 彼らをベツレヘムまで先導したのは、星であった。

 

 博士たちの旅は、出会いの旅であった。「ユダヤ人の王としてお生れに」(2)なった方を拝みにとある。実際は、そんなちっぽけな王ではない。「王の王 主の主」(黙示19:16)なる方が、人となってこの世にこられた方を拝むための旅となった。

 

 御子なるイエスのために、博士たちは3つの贈り物を準備した。「黄金、乳香、没薬」(11)である。それぞれの贈り物には、意味がある。中でも「没薬」は、特別な意味を覚える。没薬は死んだ人の体に塗る。つまり、十字架である。イエス・キリストは、すべての人の罪を背負われて、罰を受けられた。博士たちに留まらず、すべての人が人生という旅のどこかで、キリストとの出会いを果たしてほしい。

 

 この出会いのために、人生のすべてをかけるだけの意味がある。あなたは、キリストとの確かな出会いの体験をもっておられるだろうか。


2019.12.22

クリスマス

ルカ2: 11

 

 キリスト降誕は、今から2千年前、ベツレヘムという町での出来事である。この第一報を受けたのは、近くで羊の夜番をしていた羊飼いたちであった。伝えたのは、主の使いで、次のような内容である。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(11) 

 

 主の使いの知らせに、羊飼いたちは恐れを覚えた。彼らは、貧しかったし、社会的な地位もなければ、宗教的にも縁遠かったからである。彼らは、急いでいって、マリヤとヨセフ、飼い葉桶に寝かせられているイエスを捜し当てた。

 

 「いれまつる家あらず 休めまつる宿もあらず ただむさき馬小屋を 仮の宿となしたもう」(新聖歌87番) 神が人の姿をとってこの世に降られたのを知れば知るほどに、感謝があふれてくる。その主は、貧しくなられた。私たちは、どのような思いでクリスマスを迎えるのだろうか。マタイ1、2章、ルカ1、2章、ヨハネ1章を味読してみよう。クリスマスの意味を知って、この日を迎えたいものである。


2019.12.15

神が人となり

ヨハネ1: 1、14

 

 ヨハネによる福音書は、不思議な書き出しから始まっている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 言は初めに神と共にあった。 」(1:1-2)   「初めに言があった」は、どう理解したらよいのだろう。創世記1章3節を開いてみると、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とある。この「言われた」に焦点を当てて、「初めに言があった」を見てみると、何となくわかった思いになるかもしれない。

 

 神は、「言」をもって天地・宇宙・万物を創造されたのはわかる。この神こそは、「ことばなる神」である。これから先がある。「ことばなる神」は、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14)とある。このお方が、イエス・キリストであると聖書の中に書いてある。

神が人となってこの世に来られたのは、よほどのことである。

 

 なぜによほどなのだろう。神の目を通しての、この世は「闇」なのだという。闇の中にある人々を救うために世に来られたのである。より具体的に言うならば、私たちを罪から救うために、自ら十字架にお架かりになられたのである。神の御名をほめたたえようではないか。

2019.12.8

2つの名前

マタイ1:21

 

 イエス・キリストの母マリヤは、聖霊によって身ごもった。いいなづけのヨセフは、その事実を知らなかった。マリヤのお腹は膨らんでいく中にあって、ヨセフの気持ちは萎んでいくばかりである。彼は、離縁をも考え始めるようになる。そうした状況下にあって、神ご自身が御使いを通して動かれた。

 

 ヨセフが寝静まっていたときに、御使いが夢に現れてマリヤ関する事の次第を伝えた。私たちも、さまざまな問題が生じたときには、まずは事実を正しく伝えることが大切である。御使いは、事の次第を伝える中に、「心配しないで」との言葉を挟んだ。私たちは、問題を抱えたときに「大丈夫」という言葉を耳にしたいと願うだろう。

 

 なおも、御使いはヨセフに告げる。それは、生まれてくる幼な子の名前である。一つは、「イエス」で、神は救いの意味である。もう一つは、「インマヌエル」で、「われらと共にいます」の意味である。2つの名前は、イエスのみ働きを表している。「名は体を表す」という故事があるが、主イエスのご生涯を名が示すとおりであった。御使いからの知らせを受けて、ヨセフと身重のマリヤはベツレヘムまで旅をして、そこで御子イエス・キリストが誕生したのである。


2019.12.1

ローソクを灯して

 12月1日の聖日からアドベント(待降節)に入る。この聖日には、1本目のローソクに火が灯る。8日には2本を灯し、15日には3本、22日のクリスマスには4本すべてを灯す。クリスマスまでの時を知らせる役割りをローソクが果たしている。

 ローソクの火を見ていると、次々と聖句が脳裏に浮かぶ。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)。「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19 - 20) 罪人が救われて、「光に来る」(21)ことは、自分の力ではできるものではない。ただただ恵みによる以外にない。感謝が湧き上がってくる。

 今、「ローソクの科学」(ファラデー著)が脚光を浴びている。ノーベル化学賞受賞者、吉野彰氏はこう話している。「小学校の先生の勧めで、この一冊を読んだのがきっかけで、科学者の道に進むようになった」とのこと。そこで、ファラデーについて調べてみた。「父ジェームスの信仰を受け継いだクリスチャンである。教会では、司祭を補佐する仕事も経験していて、集会の長老も二期つとめるなど、その信仰は熱心であった」のがわかった。正月、読み直してみたいと思う。


2019.11.24

一章入魂 

 

 魚べいという寿司屋の看板に、「一貫入魂」の文字を発見した。日ごろは冷めたモノの見方をしていても、ならば入ってみようかとの思いになった私である。ところで、私たちクリスチャンは、聖書のあちらこちらを開いて、御言葉のつまみ食いをして満足していないだろうか。それも一つの聖書の楽しみ方なのだとは思うが。

 

 「一貫入魂」を文字って、「一章入魂」という聖書の読み方をオススメしたい。飛ばすことなく1章を丹念に読み、また読み直し、重ねて読む。それから、次の章も同じように読んでいく。そうしていくうちに、多くの発見がある。たとえば、マタイの1章を開くとしよう。系図がでてくる。系図中5人の女の名前がでてくる。そのことにお気づきだろうか。

 

 「それがどうした」と、言葉が返ってくるかもしれない。最後の一人は、イエスの母マリヤである。後の4人がどういう人だったか旧約聖書を調べることになる。その調べた結果をもって、再びマタイの1章を読んでみよう。舌を噛みそうな名前の羅列にも、深い意味があったのだとわかる。11月20日の祈祷会から、「一章入魂」の思いでマタイの福音書を皮切りに、聖書を学び始めた。27日は、マタイ2章が開かれる。

2019.11.17

神の時

伝道の書3:11

 

 ソロモン王は、神がその時々になされる御業を、「美しい」と表現している。豊岡で牧会していた当時、30分ほど離れた八鹿(ようか)から、礼拝に来ていた3人の老婦人がおられた。そのお一人が、「小さな畑で葉物を育てていますが、その生育を見ておりますと、神様のお働きがよくわかります」と、話しておられた。

 

 人それぞれ「神の時」を、いつどのような出来事から覚えるかは違っている。私が最近、使徒の働き11章を読んだ。その中にアンテオケ教会について記されてあった。

 

エルサレム教会の迫害によって、散らされた聖徒の一部がアンテオケに来た。そこは、国外でありギリシャ語しか通じない。福音を語ったところ、大勢が信じた。エルサレム教会は、バルナバを派遣。続いて、サウロ(後のパウロ)が働きに加わる。

言わば複数牧会。アンテオケ教会は、飢饉があったユダヤに住む人々を救援する。この一連の働きは、鮮やかな聖霊の御業である。

 

 こうした出来事は、ほんの一部にすぎない。聖書の中にも、自然界の中にも、日常生活の中にも、教会の中にあっても、神のみ働きを受け止めたいと願う。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(3:11) 私たちは、その時々の神の御業を、どのように表現するだろう。



2019.11.10

宣教の重荷を

Ⅱテモテ4:2

 

 テモテは、幼いころより聖書教育を受け、祖母と母から信仰を継承した。言わば、2代目か3代目のクリスチャンということになる。若くして信仰を持つことができたのは幸いである。この時期の、彼の信仰生活は波一つ立たないような、守られた中での歩みではなかっただろうか。パウロの第2次伝道旅行には、テモテを選び同伴した。おそらく、彼が20代ではなかったかと思われる。

 

 テモテはパウロと離れて、主の働きに従事していた。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」と、書き送ってをいる。いざ、働きの現場に入ると、親元で信仰生活していたころとは、ガラッと状況が変わる。悩みの中にあったテモテに、パウロは手紙を送る。

 

 「耳ざわりのよい話」で人を集めようとするなと。それは、主の言葉を語るものとしては不適である。テモテにこうも奨める。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)   私たちにも求められていること、それは主から託された御言葉を宣べ伝えることにある。


 

2019.11.3

出会いが人生を変える

ルカ5:4 - 5

 一度の出会いが人生を変えることがある。ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペテロもその一人である。夜どうし漁をしたが、何も取れずに陸(おか)に上がったシモンの舟に主は乗り込んだ。そして、少し岸から離れるように求めた。そこから、群衆に話された。一番、間近かで話を聞いていたのは、シモンであった。

 そのシモンに、主はさらなる要求をされた。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(4)。シモンは、そのようにしたところ、おびただしい漁の魚が取れた。夜どおしの漁での不漁から、一変して大漁となった。シモンが、驚くべき結果を得たのは、主のお言葉どおりに従ったからである。

 この出来事を通じて、シモンは、目の前におられるお方が誰であるかを知った。主はシモンに「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(9) と、話された。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。 」(10)  これを機に、シモンと、他の漁師たちは主の弟子になった。私たちは、主イエスとの出会いを体験しているだろうか。


2019.10.27

キリストの招き

マタイ9:9

 

  今から2千年前、ユダヤ社会で嫌われていたのが取税人である。主イエスは、マタイという名の取税人に「わたしに従ってきなさい」を声をかけられた。なぜ、取税人がきらわれたのだろう。それは、ローマの手先となり、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から税を取り立てていたからである。

 

 イエスに従っていったマタイは、食事を共にした。席を共にしていたのは、多くの取税人や罪人たちであった。これを見たパリサイ人は、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(11)と、声をあげた。

 

 私たちは、マタイ9:9-13を読みながら、主イエスは、どのような人をも招いておられるのがわかる。私たちは、自分にとって役立つ人、利益になる人、気に入った人を招くのではなかろうか。私たちは、主イエスから招かれた一人である。今も主は、「来たれ」と声をかけておられる。


2019.10.20

自らを差し出す

ローマ12:1

 

    どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(1)という。

 

 「霊的な礼拝」は、「神にみ心にかなった礼拝」と受け止めればよい。その礼拝には、「生きた、聖なる供え物」が求められる。「供え物」とは、「神に差し出す物」というわけである。何を差し出すか。それは、「あなたがたの体」である。つまり、あなた自身の身も霊もお捧げするのである。

 

 私たちの教会は、礼拝を含めてどのような集会にも、喜んで来ていただきたいと願っている。だが、あえて言わせていただけるとしたら、礼拝は、主のみ救いをいただいた人に求められている。身も霊もお捧げするのは、救われたことに対する感謝なくしてはできないからである。あなたは、どのような意識を持って礼拝を捧げておられるだろうか。


2019.10.13

 

死は勝利にのまれて

 

Ⅰコリント15:55

 

  「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)   すべての人は罪を犯す。如何ともし難いことである。私たちは、さまざまな問題に処することができたとしても、「罪」に対しては、成すすべがない。全人類の敵は、「死」である。

 

 その私たちに、「永遠のいのち」がいただくことができる。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。 」(同23) 救い主イエス・キリストの恵みによって、罪ゆるされ、霊的な生まれかわることができる。これを新生といっている。救われた私たちは、朽ちる肉体を持っている。肉体は贖われないのだろうか。

 

 将来、携挙というできごとが起こる。そのときに、主とともに、先に主によって召された人がよみがえる。これを死人の復活という。その時に、「死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられる」 「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 」(Ⅰコリ15:52)  と、パウロは記している。

 

 この時に、肉体が完全に贖われたことになる。死人の復活の出来事を通して、死は、敗北でなく。「死は勝利にのまれてしま」うことになる。(55)


2019.10.6

プラス愛でいこう

コロサイ3:14

 

  あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容、互に忍びあい、もし互に責むべきことがあればゆるし合う(12-13)。パウロは、クリスチャンに対して高い標準を示す。それで終わらない。「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。」(14)  つまり、プラス愛である。キリスト教は、愛とゆるしの教えと言われることがある。その通りだとおもう。

 

 愛とゆるしの教えは受ける者にはありがたい。人は自己中心な生き物である。与える者への道は、はなはだ険しい道に思える。理想と現実のギャップに悩む人もいるだろう。自分の力で成し遂げるのはむずかしい。わたしも、そうだと思う。

 

 唯一の方法がある。主イエスの心を心とすることである。主が、私たちの罪ゆえ十字架にお架かりになられた。それは、愛ゆえである。このお方から目を離すことなく、わが身になされたゆるしの恵みの大きさから目を離さなければ、主の標準を歩むことができると信じている。


2019.9.29

揺るぎない信仰

使徒11:23

    世の中の仕組みがより複雑になってきていると思う。ここ最近まで交通系ICカードICOKAの使用を躊躇していた。今は、便利さを知り用いている。価値の多様化、温暖化きていると思われる異常気象などなど、多くの人が将来に対する不安を覚えているのではなかろうか。

 

 エルサレム教会は、「バルナバをアンテオケにつかわした。」(22)   そして、「信仰を揺るがない心で持ちつづけるよう」(23)、みんなの者を励ました。わたしたちがどんなにまっとうな歩みをしていても、思いもおよばない中を通される。ちょっとしたことで信仰を見失うようなことがあっていいわけでない。バルナバの奨励は、ときに私たちに向けての言葉でもある。

 

 考えてみてほしい。今から25年前に、阪神淡路大震災が起こった。地が揺るいたのだ。70年、80年の生涯の中では大きな出来事に巻き込まれることがある。たといそうでも、信仰だけは揺るがないでほしい。立ち続けてほしい。


 

2019.9.22

天に召される

Ⅱコリント5:1

 

 クリスチャンの死を、「召天」という言い方をする。「昇天」は、キリストが復活して40日後に天に上げられたできごとを指している。召天と昇天は、同音異義語であるので使い分けて用い、理解したいものである。

 

 死んだ先について聖書には記している。「すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」(5:1)  私たちもいずれ、この地上を離れて、天にある永遠の家に入ることになる。

 

 愛する者との死別は、悲しくもあり寂しくもある。聖書には、「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩篇116篇15節)とある。悲しみの中にも、主が召され、永遠の住まいの中に招き入れられていることを信じようではないか。


2019.9.15

 

柔軟性を養う

 

ピリピ4:11-13

 

 ぶれない信仰を大切に、さまざまな出来事に柔軟に対応していければと願っている。使徒パウロは、この2つを持ち合わせた人物ではなかろうか。長い信仰者の歩みを通して、培われてきたものである。彼が獄中から記した手紙の中に、次のような言葉がでてくる。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(4:11)

 

 ユダヤ人だったパウロが、回心してキリスト教徒になった。特に、異邦人に向けて宣教の働きを担う。迫害の中にあっても、宣教の情熱は消えることがなかった。「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」の言葉には、余裕さえ感じ取れる。

 

 おそらくは、異邦人、異教社会での宣教は、柔軟な心の持ち主でなければ対処できないことばかりであったでしょう。日本宣教の前進を願うなら、ぶれない信仰、柔軟性を持ってことに当たる他ないのではないか。


2019.9.8

 

再出発

創世記12:4

 

  9月1日の聖日礼拝は、長寿祝福礼拝であった。当教会で祝福を受ける年齢が75歳以上ということにしている。聖書を見ると、1箇所だけ、「75歳」がでてくる。「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」(4)

 

 75歳は、余生に生きる年齢である。アブラハムは、その年齢にして新たなる出発をすることになった。私たちは、自覚的に生きているという面だけでなく、神に生かされているという両面を持ち合わせたいものである。

 

 「生かされている」の思いは、神さまが私の中になおも使命を与えておられる、残しておられると繋がる。使命は、確実に生きる力になる。漠然と生きているより、神に生かされて使命に生きるを自覚できればと願う。

2019.9.1

休ませてあげよう

マタイ11:28

 私は18歳で社会人になった。すでに週休制2日になっていた。教会生活を考慮して、土日が休みの会社を選んだ。休みはなんのためにあるのだろうか。リフレッシュのためである。元気を回復させる意味がある。

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたを休ませてあげよう」(28)と、約束された。彼らは、主の働き(重荷)を身に受けて霊肉ともに疲れ切ってしまったのであろう。

 疲れ切ってしまっては、良い働きはできない。背負い込みすぎては、倒れてしまう。働きには、持続が求められるとしたら、2つのことが大切である。1つは、適切に休みを与える。2つは、荷を負いやすくすることである。主は、2つともに心得ておられる。

2019.8.25

大丈夫・大丈夫

Ⅰサムエル1:17

 私たちは、大なり小なり困りごとを持っている。明日を生きる力が枯渇していることもある。そんなときに「大丈夫」と言ってくれる人があればと思う。 

 

 Ⅰサムエル記1章に、ハンナがでてくる。子どもが与えられなくて悩み苦しんでいた。涙にくれていた彼女にエリは、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(Ⅰサムエル1:17)であった。この「安心して行きなさい」に、「大丈夫」という言葉を当てはめることができる。

 

 6月に押部谷教会で、月2回ゴスペルの練習に会堂を貸しているが、その練習曲の一つが、「愛があなたを待っている 大丈夫」があった。それとなく聞き耳を立てた。オリジナルは市岡裕子さんである。何度も、「大丈夫 大丈夫」と繰り返しでてくる。聞くごとに、何とも言えない安心感が心を包む。悩める人に「大丈夫」という言葉が届けられたらと願うのは私だけだろうか。


2019.8.18

天国を見た人

Ⅱコリント12:2-4

  クリスチャンは、救いの体験を人々の前で話す機会がある。私たちは、どのような人であっても、立派だから救われたのではない。救いは、神の恵み、あわれみによる。だから、胸をはって証しをしたいものである。

 使徒パウロは、他の人が経験したことがない出来事を身に受けている。その一つとして、「この人(パウロ自身)は十四年前に第三の天(パラダイス・天国)にまで引き上げられた 」(12:2) と。私たちは、「生きていて天国に行ってきた」と言う彼の言葉を、まともに受け止めない。これはパウロの体験として聖書に記されているので、すんなり受け入れることができる。

 天国は、私たちの目には見えないだけで、確かに実在する。パウロの経験からして、天国は近いところにあるように思える。主イエスは、天国についてこのように言っている。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」(ヨハネ14:2-3)

2019.8.11

聖霊をいただく

ルカ11:13

 神様だけが与えることができるもの。それは、「救い」「信仰」「聖霊」などである。その中の一つ、聖霊についてである。こういうお言葉がある。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(13)  「聖霊」を、いただける。驚くべきことなのだ。

 上記のみ言葉にあるように、「求めて来る」ものに対していただけるものである。この究極ともいえるいただきものを準備してくださっているということは、どんな願いごとでも聞いてくださっている用意があるというわけである。

 「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14:17)  聖霊は、この世の人々の関心事ではない。「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからで」ある。(同節) 神様は、私たちの内に信仰と聖霊を与えて、助け励まし慰めを与えると共に、内から外に向かって働いてくださるのである。聖霊をいただいて、喜びに満ちた信仰生活を送らせていただこうではないか。

2019.8.4

大宣教命令

マタイ28:19-20

 新約聖書の4つ福音書と使徒行伝には、キリストの大宣教命令が記されている。マタイ28:19-20では、「主の弟子とせよ」と、ある。伝道とは、「主の弟子」とすることである。もっとわかりやすく言うならば、「主の弟子」とするとは、「主のものとなる」ということである。

 

 大宣教命令が発せられたのは、キリストの昇天前であった。聖霊降臨は、エルサレムで起こった。使徒ペテロが、このときに最初のメッセージを語ったところ、3千人の人が一度に洗礼を受けた。最初の教会、エルサレム教会が誕生した。それから、2千年の時が過ぎた。

人種、国、言葉の壁を乗り越えて、福音を拡大し、救われる者が起こされている。

 

 大宣教命令が閉じられる日は必ずくる。「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 」(マタイ24:11)   時は急がれていると思う。一人でも多くの人に福音を届けたいものである。


2019.7.28

帰るところ


ルカ15:1-11

 放蕩息子のたとえは、父親から離れて歩んでいた若者の話しである。その若者(弟息子)は、父親から生前の財産分与を受けた。それを、湯水のように使いはたしたあげく、ききんという追い打ちを受ける。餓死迫る中で、若者は父のもとへ帰る決心をする。

 

 父親は、息子が返ってくるのを、見逃すまいぞと地平線の向こうに目をやりながら、待ち望んでいた。その息子が遠くに歩いているのを見て、父の方から走り寄った。息子は、帰ると決めたときから、悔い改める決心ができていた。

 

 帰るところがある息子。帰るのを待っている父親。罪は赦され、すべてのわだかまりは取り除かれ、以前あったのと少しも違わない、子として受け入れられる。この父とは、神ご自身である。どのような人も神に愛され、受け入れられる。罪を赦す神の愛の大きさは、キリストの十字架にはっきりと示されている。


2019.7.21

出来る限りのことを

マルコ14:8

 私たちは、一つ思い一つ心で前進できればどんなにいいかと思う。現実には、純粋な熱き思いから行った行為が周囲から受け止められないことある。ナルドの香油を主イエスの頭に注いだマリヤであった(マルコ14:1-9)。これにたいして、無駄なことをした。「売れば300デナリにもなり貧しい人々にでも施しが出来ただろう」と、憤るものもいた。

 

 憤ったのは、イスカリオテのユダであった(ヨハネ12:4)。表面的には、正当な発言に聞こえるだろう。主イエスは、マリヤ、そしてユダの心の内をみておられた。マリヤの行為は、意表をつくほどの大胆であった。主は、これを「出来る限りのことをした」と喜ばれた。後の世までマリヤのしたことは、覚えられると評価されたほどだ。

 

 私たちは、人の言葉を聞かなければならない。声に惑わされている限り、主イエスに私たちの純粋な心を届けられないとしてら悲しいとは思わないか。主イエスに今しかできないことがある。改めて言おう。周囲の声に惑わされている限り、主への献身の思いは届けられないかもしれないということを。

2019.7.14

信仰が問われる

ヘブル11:6

   どのようにしたら、神に喜んでいただけるのだろう。答えは、一つだけである。聖書の中にこう述べている。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)と。私たちが信じる神は、肉眼では見ることはできないが、今、ここに居ましたもうお方として仰ぐことが求められている。

 旧約聖書の中にでてくるモーセは、「その名(神の名)はなんというのですか」と、神にたずねてみた。すると、「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)との声があった。英語では、「I am who I am.」となる。人の目では見ることはできないが、「わたしはいるのである」との、意味である。

 クリスチャンは、目では見ることができない神に祈る。その祈りを神に聞かれる。聞いて答えられる。そのことを通して、私たちは神の実在の確信を持つことができる。主イエスは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と、言われた。私たちは、聖書が教えられるとおりに祈る。祈ることも信仰によってである。私たちの信仰は、問われているのである。

2019.7.7

人を生かす言葉

マルコ5:34

 

 主イエスによって長血を患っていた女性が、癒された出来事がマルコ5:25-34に記されている。このところから、一つの出会い、そして一つことばによって、新たな人生を歩みだしているのがわかる。

 

 主イエスによって病いが癒されたのは、この女性がみ衣にさわったことによってであった。この時点では、だれが衣に触れたのかわからなかったのである。主は、ご自分の衣を触ったのがだれかを捜し始められた。探されたのには、理由があった。お言葉をかけたいと思われたからである。「あなたの信仰があなたを救った」(34)  と、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」(34)である。

 

 主イエスに対する信仰が、一時だけで終わらず生涯に渡って大切なのを教えたかったのではないか。もう一つは、「安心して‥‥」との励ましの言葉である。人との別れぎわに励みになる言葉をかけてあげたいと思ったことはなかったか。その一言葉があって相手の心を開く。私たちもそのような機会を大切にしたいものである。


2019.6.30

一つになる

詩篇133篇1節

 旧約の時代、エルサレムで行われる三大祭りには、ユダヤ人の成人男子は必ず参加しなくてはならなかった。詩篇には、15の都上りの歌がある。人々は、口々に歌いながら上京したではなかろうか。

 

 「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」詩篇133篇1節は、よく知られている。「和合」は、一つになっての意味である。これは、現実的には大変に難しいと思われる。10人寄れば10人とも違いがある。生まれも、言葉も違う。年齢も、違いもある。

 

 互いの違いを認め合いながらも、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)とある。「一致を守り続けるように努め」(同4:3)るべきことが教えられている。「共におるのはいかに麗しく楽しいこと」は、一つになる努力があってこそのものではなかろうか。たとえば、世界の平和を訴えることは大切であるが、自分たちも小さなところから何ができるかを問うてみなければならない。


2019.6.23

楽器を触る

創世記4:21

 21日に、オカリナ・コンサートの音合わせを、神戸バイブル・ハウスで行った。見事なピアノ伴奏で、オカリナの音色を引き上げてくださっているのがわかる。こんなにピアノが人前で弾けたらどんなにいいだろう。そんな思いになった。

 「彼(ユバル)は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。」(創4:21)との、聖句がある。神は、賛美に楽器が必要なのを知って、人に音楽の賜物を与えておられる。そればかりではない。音楽ができれば、人生が豊かになる。嬉しいときも、悲しいときも歌は共にある。

 オカリナは、楽器としての地位を得たのは30年ほど前くらいだと思う。それまでは、楽器としての安定感はなかった。私に、ピアノは無理でも、手元にオカリナがあっていつでも手に取ることができるのはありがたい。あなたが、ユバルを祖としているかどうかはわからない。考えることも意味はない。ハーモニカもよし、リコーダーもよいだろう。あなたも楽器に触れてみたいと願わないだろうか。

2019.6.16

血は肉のいのち

レビ17:11

 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Ⅰヨハネ1:7)    キリスト教信仰は、血の信仰といってもよいと思う。

この理解を助ける聖句がある。「すべて肉の命は、その血と一つだから」(レビ17:14)である。今回の一口メモは、血についてである。

 

 血の成分で重要なのは、鉄である。成人男子は、体内にたった3グラムしかない。食生活から鉄分が補われなければ、貧血になる。貧血になると、酸素や栄養が体の隅々まで送れなくなる。そうすると、階段を上ると息切れする。夕暮れ以降ぐったりする。冷え性になる。めまい、動悸の原因にもなる。ウツにもなるという。

 

 不調の原因は、鉄不足にあるかもしれない。わたし自身も、はずかしながら貧血ぎみであることがわかった。腎臓からくるものらしい。1日10mgの鉄分が必要量である。鉄をなめてかかっている暇(いとま)は、私にはない。あなたは、大丈夫だろうか。


2019.6.9

聖霊のバプテスマ

使徒1:5

 福音が全世界に宣べ伝えられる。その働きを担うのが、先に救われた人々である。もう一つ、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)も受け止めておかなくてはならない。なぜだろう。それは、宣教の働きが聖霊の働きによってなされるものだからである。

 

 聖霊のバプテスマとは、「あなたがたは力を受け」とある。宣教や奉仕の働きには、「力」が必要である。私たちは、聖霊の賜物に思いがいくかもしれない。忘れてはならないのは、聖霊はわが内に住まわれ、その人の内から外に向かって働かれる。とすれば、内がきよめられることこそ大切であろう。

 

 聖霊は、ご人格である。そのご人格は、ゼントルマンに譬えられる。きよめられれば、宣教と奉仕に必要な働きの力は備えられるはずである。きよめの恵みを求めたい。

2019.6.2

失望に終わらない希望

ローマ5:5

 「試練」という言葉は、一般の人にはわかりにくいのではないか。それは、試みる者がいるのを前提としているからである。主イエスは、「悪魔に試みられ」ている。マタイ4章にその記録が残されている。試みられたとき、私たちはどのような心境だったか思い起こしてほしい。八方ふさがり、お先まっ暗になったことはなかったか。

 試練に遭遇している間は、トンネルにたとえることができる。その期間は長い短いはあっても、出口がある。その出口には、希望の光が差し込んでいる。神を信じる者には、希望を与えられる。それは、失望に終わらないという。私たちは、肉体的に精神的にも強じんではない。

 なぜ、希望が持てるのか。それは、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5:5)である。私たちは、見るからに弱そうに見えるが、主にあって強いのである。


2019.5.26

十字架の愛

Ⅰヨハネ3:16

 神の愛がわからないという人がある。わからないという人に、「あなたのために死んだ人がいる」というメッセージを伝えたい。そのように聞いて、どのような反応を示すだろうか。聖書の1節には、「主(キリスト)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」(Ⅰヨハネ3:16)と、記されている。ここに、神の愛を見出すことができる。

 

 「わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とは、身代わりの死をいっている。本来、私たちは罪をもってこの世に生を受けた。神は、罪は憎まれる。裁かれなければならなかった。そこで、神はみ子イエス・キリストを十字架に架けて、全人類の罪の身代わりとされたのである。

 

 「わたしたちのために…」とあるから、あなたのためでもある。「…いのちを捨てて下さった」の後に、こう続く。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。」と。神の愛ほど、具体的な愛はないと思う。


2019.5.19

人とは何か

詩篇 8:4

 詩篇にこのような言葉がある。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(詩篇8:4) 私自身にとっては、人とは何者なのかを考える上で、大切な聖句であった。それは、すべての人にとって大切な問いかけである。

 2045年にAI(人工知能)の知性が人間を遥かに超えてしまう。2019年の今、2045年はそれほど先の話ではない。多くの分野で、AIが用いられるようになるのは、避けられない。「人とは何者か」が、この時代だからこそ問われてくるようになるのだと思う。

 AI(人工知能)と人間の違いはどこにあるのだろう。究極的には、「信仰を持っているのが人間」ということになる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6) まことの神なくしては、人は人として正しく生きていくことなど不可能である。


2019.5.12

自分の足で

Ⅱテモテ 1:5

 私たちは、親からさまざまなものを受け継ぐ。テモテは、「祖母ロイスと母ユニケとに宿った」(Ⅱテモテ1:5)信仰的感化の下で育ったと思われる。その信仰は、「あなた(テモテ)にも宿っている」(5)と、述べている。
 信仰が「宿る」とある。キリストを信じる信仰は生まれ持ったものではないからである。信仰は賜物、神から与えられるものである。
その信仰は、「偽りのない」(5)ものでなくてはならない。どこまでも誤りのない神のことばに立っているかが、正・偽の判断基準である。
 年若いテモテは、信仰(福音)の継承者となり、主の働き人になった。2代、3代クリスチャンは、「親がクリスチャンだから自分も信じている」というかもしれない。それは、感謝ではあるが、その一人ひとりが自分の信仰となり、自分の足で歩んでいるかが問われている。信仰の自立こそ大人のクリスチャンである。

2019.5.02

 

あなたの神を愛せよ

 

マルコ 12:30

 人生の目的は、「主なるあなたの神を愛する」(マルコ12:30)ことである。この聖句の前には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」とある。何と「つくす」が4回でてくる。

 改めて「心をつくし、……あなたの神を愛せよ」を、何度も読み直してみる。人生の目的はここにありと明言できる。仕事も家族も大切なのは、わかっている。すべては、マルコ12:30を土台に据えてから、その他の大切な部分を考えよう。

 それは、ただ聖日礼拝に出席するだけの話しではない。私たちの存在すべてをもって、神を愛する者でありたい。幸せな人生。それは、神を見出した人の中に訪れる。なぜなら、「つくす」べきものが何かがはっきりするからである。

 

 

2019.4.28

 

イエスは主なり
   
「あなたは、救いの確信がありますか」と問われるなら、どう答えるだろう。ある人は、教会に行くようになってから、病いが癒された、力をいただいた、慰めを得たとか、幸せになったなどと答えられるかもしれない。
 だからといって、それを聖書が教える救いだと思ってはならない。パウロは、ローマ人への手紙の中でこうしるしている。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」 (10:9 -10) ここで教えられていることは、あなたはイエスをどう見ているかである。
 「イエスは主」の主は、「イエスは神である」との意味である。もう一つ、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる」ことである。イエスの復活を信じるということである。

 

 

2019.4.21

 

昇天後のキリスト


ヘブル 7:25

 キリストが、すべての人のために十字架にお架かりになられた。救いの御業は完了したわけであるが、それだけで人が救われるわけでない。この歴史的事実が、私たち一人びとりに当てはめられなくてはならない。罪の中に滅びが定められていたこの私が、心からなる救いを求めなくてはならない。
 キリストは、十字架後に復活、昇天された。ここで着目していただきたいことがある。昇天後のキリストのお働きである。ヘブル人への手紙7章25節に、「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、…」(25a)とある。そんなにも「とりなし」は大切なのだろうか。
こう後に続く、「彼によって神に来る人人を、いつも救うことができる」(25b)ようにするためである。21世紀の今も、救われる人が起こされている。それは、キリストが今もとりなしておられるからである。

 

 

2019.4.14


大胆であれ


ヘブル 4:16

 控えめな人が好まれるのは、日本社会だけの話しなのだろうか。だからといって、すべてが控えめであっていいわけではない。
このような聖句がある。「大胆に恵みの御座に近づこうではないか」(新改訳2017 :16) 大胆であることが奨励されているからである。
 神の恵みの御座に近づくのは、足がすくむだろう。きよい神に対して生まれながらの罪人である私たちなのだから。
主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、その血によって罪をゆるし、きよめられる。
こうして、主を信じる人は、遠慮することなく恵みの御座に進みでることができる。
私たちの側から大胆に御前に進み出たい。