牧師ひとくちメモ

2019.5.26

十字架の愛

Ⅰヨハネ3:16

 神の愛がわからないという人がある。わからないという人に、「あなたのために死んだ人がいる」というメッセージを伝えたい。そのように聞いて、どのような反応を示すだろうか。聖書の1節には、「主(キリスト)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。」(Ⅰヨハネ3:16)と、記されている。ここに、神の愛を見出すことができる。

 

 「わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」とは、身代わりの死をいっている。本来、私たちは罪をもってこの世に生を受けた。神は、罪は憎まれる。裁かれなければならなかった。そこで、神はみ子イエス・キリストを十字架に架けて、全人類の罪の身代わりとされたのである。

 

 「わたしたちのために…」とあるから、あなたのためでもある。「…いのちを捨てて下さった」の後に、こう続く。「それによって、わたしたちは愛ということを知った。」と。神の愛ほど、具体的な愛はないと思う。


2019.5.19

人とは何か

詩篇 8:4

 詩篇にこのような言葉がある。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか」(詩篇8:4) 私自身にとっては、人とは何者なのかを考える上で、大切な聖句であった。それは、すべての人にとって大切な問いかけである。

 2045年にAI(人工知能)の知性が人間を遥かに超えてしまう。2019年の今、2045年はそれほど先の話ではない。多くの分野で、AIが用いられるようになるのは、避けられない。「人とは何者か」が、この時代だからこそ問われてくるようになるのだと思う。

 AI(人工知能)と人間の違いはどこにあるのだろう。究極的には、「信仰を持っているのが人間」ということになる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6) まことの神なくしては、人は人として正しく生きていくことなど不可能である。


2019.5.12

自分の足で

Ⅱテモテ 1:5
 私たちは、親からさまざまなものを受け継ぐ。テモテは、「祖母ロイスと母ユニケとに宿った」(Ⅱテモテ1:5)信仰的感化の下で育ったと思われる。その信仰は、「あなた(テモテ)にも宿っている」(5)と、述べている。
 信仰が「宿る」とある。キリストを信じる信仰は生まれ持ったものではないからである。信仰は賜物、神から与えられるものである。
その信仰は、「偽りのない」(5)ものでなくてはならない。どこまでも誤りのない神のことばに立っているかが、正・偽の判断基準である。
 年若いテモテは、信仰(福音)の継承者となり、主の働き人になった。2代、3代クリスチャンは、「親がクリスチャンだから自分も信じている」というかもしれない。それは、感謝ではあるが、その一人ひとりが自分の信仰となり、自分の足で歩んでいるかが問われている。信仰の自立こそ大人のクリスチャンである。

2019.5.02

 

あなたの神を愛せよ

 

マルコ 12:30

 人生の目的は、「主なるあなたの神を愛する」(マルコ12:30)ことである。この聖句の前には、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」とある。何と「つくす」が4回でてくる。

 改めて「心をつくし、……あなたの神を愛せよ」を、何度も読み直してみる。人生の目的はここにありと明言できる。仕事も家族も大切なのは、わかっている。すべては、マルコ12:30を土台に据えてから、その他の大切な部分を考えよう。

 それは、ただ聖日礼拝に出席するだけの話しではない。私たちの存在すべてをもって、神を愛する者でありたい。幸せな人生。それは、神を見出した人の中に訪れる。なぜなら、「つくす」べきものが何かがはっきりするからである。

 

 

2019.4.28

 

イエスは主なり
   
「あなたは、救いの確信がありますか」と問われるなら、どう答えるだろう。ある人は、教会に行くようになってから、病いが癒された、力をいただいた、慰めを得たとか、幸せになったなどと答えられるかもしれない。
 だからといって、それを聖書が教える救いだと思ってはならない。パウロは、ローマ人への手紙の中でこうしるしている。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」 (10:9 -10) ここで教えられていることは、あなたはイエスをどう見ているかである。
 「イエスは主」の主は、「イエスは神である」との意味である。もう一つ、「神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じる」ことである。イエスの復活を信じるということである。

 

 

2019.4.21

 

昇天後のキリスト


ヘブル 7:25
 キリストが、すべての人のために十字架にお架かりになられた。救いの御業は完了したわけであるが、それだけで人が救われるわけでない。この歴史的事実が、私たち一人びとりに当てはめられなくてはならない。罪の中に滅びが定められていたこの私が、心からなる救いを求めなくてはならない。
 キリストは、十字架後に復活、昇天された。ここで着目していただきたいことがある。昇天後のキリストのお働きである。ヘブル人への手紙7章25節に、「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしをしておられるので、…」(25a)とある。そんなにも「とりなし」は大切なのだろうか。
こう後に続く、「彼によって神に来る人人を、いつも救うことができる」(25b)ようにするためである。21世紀の今も、救われる人が起こされている。それは、キリストが今もとりなしておられるからである。

 

 

2019.4.14


大胆であれ


ヘブル 4:16
 控えめな人が好まれるのは、日本社会だけの話しなのだろうか。だからといって、すべてが控えめであっていいわけではない。
このような聖句がある。「大胆に恵みの御座に近づこうではないか」(新改訳2017 :16) 大胆であることが奨励されているからである。
 神の恵みの御座に近づくのは、足がすくむだろう。きよい神に対して生まれながらの罪人である私たちなのだから。
主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、その血によって罪をゆるし、きよめられる。
こうして、主を信じる人は、遠慮することなく恵みの御座に進みでることができる。
私たちの側から大胆に御前に進み出たい。